ここが「宇佐」、ここが「伊勢」の神武東征 : 下
2018年01月16日
脈々と続く歴代天皇の歴史は、「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 が日向の地を出立したことに始まります。
これが 「 神武天皇の東征 」 です。
- 「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 は後に初代天皇となる 「 神武天皇 」 です。
- ・・・
- 高千穂の峰に降臨した 「 ニニギノミコト : 瓊瓊杵尊 」 の曾孫 に当たります。
- 「 アマテラスオオミカミ : 天照大神 」 からみれば五代後、来孫になりますね。
日向を出立した 「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 はまず 宇佐 に、その後 岡田宮 (現:八幡黒崎)に1年、
阿岐の多祁理宮(現:安芸郡府中町)に7年、吉備の高島宮(現:児島宮浦)に8年逗留の後大和に向かいます。
- 実は 「 古事記 」 に拠る記述と「 日本書紀 」 のそれは微妙に異なります。
- ・・・
- 宇佐や岡田宮に寄っていますが、これは本家である出身国(高天原)とのネゴでしょうか。
- 阿岐、吉備には相当の長逗留ですね。
- 既に出身国(高天原)の手中にはあるものの、それでも未だ強い勢力を持つ出雲が背後にあります。
- 調整やら兵站補強やら、やりくりに相当苦労したことが伺えます。
そして満を持しての大和への攻め入り、しかし負け戦。
それではと南方の熊野から廻りこんでようやく大和盆地へと入るわけです。
- この時熊野で道案内をしたのが、あのサッカー日本代表の胸にもとまる八咫烏 ( やたがらす ) でした。
地名は 「 古事記 」 記載名
※ GoogleMaps をキャプチャ、加筆。クリックすると拡大図を表示します。
宇陀 を経由して居を構えたのが 白檮原 、ここで 初代天皇としての地盤 を固めます。
- その白檮原の地に、明治に入って橿原神宮が建てられました。 ○ 橿原神宮
記紀では1000年程ゲタを履かせて西暦の紀元前の時代の 「 神武東征 」 ですが 、
実際にはおそらく 3世紀末 のことではなかっただろうかと推察します。
おっと、今回は 「 神武東征 」 論を展開するつもりは毛頭ありません。
- 前回申したように 「 古事記 」 「 日本書紀 」 が撰上されたのは奈良時代 に入ってからのことですし、
- 現在 「 ○○天皇 」 のように言う 漢風諡号 も同時代での後追い命名です。
- そう言えば、「 平成 」 「 昭和 」 などの 年号 が設けられるようになったのもこの時代からのことです。
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
現 「 宇佐神宮 」 は 725 年の創建と言われますが、これは現在の形式を源とするものです。
しかしこの地が奉られたのは、その遥か以前 天孫降臨の時代に遡る と言われています。
○ 宇佐神宮について > 歴史年表
- 個人的意見ですが、今の福岡の地は言わば 「 玄関 」 、大陸と直面し過ぎる嫌いがあります。
- 一方宇佐の地は 「 応接間 」 、眼の前には大動脈瀬戸内が畿内へと ( 逆も ) 通じる最適のハブ基地です。
一方 「 伊勢神宮 」 は 垂仁天皇の時代 の時代のことと言われています。
- もちろん、これは 「 カムヤマトイワレヒコノミコト (神武天皇) 」 による大和平定後のこと。
- ・・・
- 神武天皇と崇神天皇を同一人物とし、両天皇を 「 東征 」 と 「 大和治世 」 に分けたとする説もあります。
- 垂仁天皇は崇神天皇の子に当たります。
- ○ Wikipedia - 歴代天皇の一覧
-
- 180117 追記
- 垂仁天皇の在位期については実在・非実在の史実性を含め諸説あるが、個人的には「4C半ば」と想定。
ここで前回の最期に載せた 「 宇佐神宮 」 と 「 伊勢神宮 」 の比較地図を再掲してみます。
「 うさ 」 と 「 いせ 」
※ クリックすると拡大図を表示します。
近代に入ると交通・流通手段は陸の上に移りましたが、それまではずぅ~と海路が主役です。
・・・
そんなことを頭で考えつつ 「 宇佐 」 と 「 伊勢 」 の位置相似を見ていると、
この二つの土地に共通する特徴こそは、海を捕らえるに最適の地理的必然であっただろうと考えます。
- どう見ても 「 宇佐 」 を知る人間が 「 伊勢 」 を見出した としか思えないのです。
もう少し拡大した地図で見比べて見ましょう。
「 うさ 」 と 「 いせ 」
※ Mapion-3D風 をキャプチャ。クリックすると拡大図を表示します。
- 「 伊勢神宮 」 の文字記載がある処は 「 内宮 」 で、「 外宮 」 が市街地内の市役所西にあります。
両神宮とも、西~北に川が、東には街道が走り、それらに挟まれた聖地境内は南に広大な山を抱いています。
- 川が西から北へと流れているのも似ていますし、街道が北西~南東に走っているのも共通しています。
- ・・・
- それぞれ、宇佐神宮が 「 寄藻川(よりもがわ) 」、伊勢神宮が 「 五十鈴川(いすずがわ) 」 です。
- ○ Wikipedia - 寄藻川
- ○ Wikipedia - 五十鈴川
川に掛かる橋を渡り、境内を反時計回りにグルリと廻って 「 上宮 」 或いは 「 正宮 」 へと参るのもそっくり。
川を渡って 「 上宮 」、「 正宮 」 へ
※ GoogleMaps をキャプチャ、加筆。クリックすると拡大図を表示します。
- リンクフリーのようですので、境内の様子がよく判る写真があったサイトを貼っておきます。
- ○ 神社探訪・狛犬見聞録 : 宇佐神宮
- ○ 神社探訪・狛犬見聞録 : 伊勢神宮-皇大神宮(内宮)
境内の配置計画など後世になって相互に影響し合ったこともかなりあるでしょうが、
そもそもの地理的な文脈における 「 宇佐 」 の地政学こそは、
「 日向~宇佐 」 から 「 大和 」 へと渡った人間の魂の根源にあったものだと推察できるやも。
・・・・・・
・・・・・・
最期に 「 神武東征 」 を上の 「 宇佐-伊勢 」 比較地図にも重ねてみておきたいと思います。
「 神武東征 」
※ GoogleMaps をキャプチャ、加筆。クリックすると拡大図を表示します。
天皇家は二所の宗廟 を持ちますが、それが 宇佐神宮 と 伊勢神宮 です。
- ちなみに宇佐神宮が奉るのは 「 応神天皇 」 「 比咩大神 」 「 神功皇后 」 、○ 宇佐神宮
- 伊勢神宮が奉るのは 「 天照大御神 : 内宮 」、 「豊受大御神 : 外宮 」 です。○ 伊勢神宮
これが 「 神武天皇の東征 」 です。
- 「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 は後に初代天皇となる 「 神武天皇 」 です。
- ・・・
- 高千穂の峰に降臨した 「 ニニギノミコト : 瓊瓊杵尊 」 の曾孫 に当たります。
- 「 アマテラスオオミカミ : 天照大神 」 からみれば五代後、来孫になりますね。
日向を出立した 「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 はまず 宇佐 に、その後 岡田宮 (現:八幡黒崎)に1年、
阿岐の多祁理宮(現:安芸郡府中町)に7年、吉備の高島宮(現:児島宮浦)に8年逗留の後大和に向かいます。
- 実は 「 古事記 」 に拠る記述と「 日本書紀 」 のそれは微妙に異なります。
- ・・・
- 宇佐や岡田宮に寄っていますが、これは本家である出身国(高天原)とのネゴでしょうか。
- 阿岐、吉備には相当の長逗留ですね。
- 既に出身国(高天原)の手中にはあるものの、それでも未だ強い勢力を持つ出雲が背後にあります。
- 調整やら兵站補強やら、やりくりに相当苦労したことが伺えます。
そして満を持しての大和への攻め入り、しかし負け戦。
それではと南方の熊野から廻りこんでようやく大和盆地へと入るわけです。
- この時熊野で道案内をしたのが、あのサッカー日本代表の胸にもとまる八咫烏 ( やたがらす ) でした。
地名は 「 古事記 」 記載名
※ GoogleMaps をキャプチャ、加筆。クリックすると拡大図を表示します。
宇陀 を経由して居を構えたのが 白檮原 、ここで 初代天皇としての地盤 を固めます。
- その白檮原の地に、明治に入って橿原神宮が建てられました。 ○ 橿原神宮
記紀では1000年程ゲタを履かせて西暦の紀元前の時代の 「 神武東征 」 ですが 、
実際にはおそらく 3世紀末 のことではなかっただろうかと推察します。
おっと、今回は 「 神武東征 」 論を展開するつもりは毛頭ありません。
- 前回申したように 「 古事記 」 「 日本書紀 」 が撰上されたのは奈良時代 に入ってからのことですし、
- 現在 「 ○○天皇 」 のように言う 漢風諡号 も同時代での後追い命名です。
- そう言えば、「 平成 」 「 昭和 」 などの 年号 が設けられるようになったのもこの時代からのことです。
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現 「 宇佐神宮 」 は 725 年の創建と言われますが、これは現在の形式を源とするものです。
しかしこの地が奉られたのは、その遥か以前 天孫降臨の時代に遡る と言われています。
○ 宇佐神宮について > 歴史年表
- 個人的意見ですが、今の福岡の地は言わば 「 玄関 」 、大陸と直面し過ぎる嫌いがあります。
- 一方宇佐の地は 「 応接間 」 、眼の前には大動脈瀬戸内が畿内へと ( 逆も ) 通じる最適のハブ基地です。
一方 「 伊勢神宮 」 は 垂仁天皇の時代 の時代のことと言われています。
- もちろん、これは 「 カムヤマトイワレヒコノミコト (神武天皇) 」 による大和平定後のこと。
- ・・・
- 神武天皇と崇神天皇を同一人物とし、両天皇を 「 東征 」 と 「 大和治世 」 に分けたとする説もあります。
- 垂仁天皇は崇神天皇の子に当たります。
- ○ Wikipedia - 歴代天皇の一覧
-
- 180117 追記
- 垂仁天皇の在位期については実在・非実在の史実性を含め諸説あるが、個人的には「4C半ば」と想定。
ここで前回の最期に載せた 「 宇佐神宮 」 と 「 伊勢神宮 」 の比較地図を再掲してみます。
「 うさ 」 と 「 いせ 」
※ クリックすると拡大図を表示します。
近代に入ると交通・流通手段は陸の上に移りましたが、それまではずぅ~と海路が主役です。
・・・
そんなことを頭で考えつつ 「 宇佐 」 と 「 伊勢 」 の位置相似を見ていると、
この二つの土地に共通する特徴こそは、海を捕らえるに最適の地理的必然であっただろうと考えます。
- どう見ても 「 宇佐 」 を知る人間が 「 伊勢 」 を見出した としか思えないのです。
もう少し拡大した地図で見比べて見ましょう。
「 うさ 」 と 「 いせ 」
※ Mapion-3D風 をキャプチャ。クリックすると拡大図を表示します。
- 「 伊勢神宮 」 の文字記載がある処は 「 内宮 」 で、「 外宮 」 が市街地内の市役所西にあります。
両神宮とも、西~北に川が、東には街道が走り、それらに挟まれた聖地境内は南に広大な山を抱いています。
- 川が西から北へと流れているのも似ていますし、街道が北西~南東に走っているのも共通しています。
- ・・・
- それぞれ、宇佐神宮が 「 寄藻川(よりもがわ) 」、伊勢神宮が 「 五十鈴川(いすずがわ) 」 です。
- ○ Wikipedia - 寄藻川
- ○ Wikipedia - 五十鈴川
川に掛かる橋を渡り、境内を反時計回りにグルリと廻って 「 上宮 」 或いは 「 正宮 」 へと参るのもそっくり。
川を渡って 「 上宮 」、「 正宮 」 へ
※ GoogleMaps をキャプチャ、加筆。クリックすると拡大図を表示します。
- リンクフリーのようですので、境内の様子がよく判る写真があったサイトを貼っておきます。
- ○ 神社探訪・狛犬見聞録 : 宇佐神宮
- ○ 神社探訪・狛犬見聞録 : 伊勢神宮-皇大神宮(内宮)
境内の配置計画など後世になって相互に影響し合ったこともかなりあるでしょうが、
そもそもの地理的な文脈における 「 宇佐 」 の地政学こそは、
「 日向~宇佐 」 から 「 大和 」 へと渡った人間の魂の根源にあったものだと推察できるやも。
・・・・・・
・・・・・・
最期に 「 神武東征 」 を上の 「 宇佐-伊勢 」 比較地図にも重ねてみておきたいと思います。
「 神武東征 」
※ GoogleMaps をキャプチャ、加筆。クリックすると拡大図を表示します。
天皇家は二所の宗廟 を持ちますが、それが 宇佐神宮 と 伊勢神宮 です。
- ちなみに宇佐神宮が奉るのは 「 応神天皇 」 「 比咩大神 」 「 神功皇后 」 、○ 宇佐神宮
- 伊勢神宮が奉るのは 「 天照大御神 : 内宮 」、 「豊受大御神 : 外宮 」 です。○ 伊勢神宮
ここが「宇佐」、ここが「伊勢」の神武東征 : 上
2018年01月16日
霧島は 「 高千穂の峰 」 と言えば、これは 「 天孫降臨 」 の地 として知られます。
- 坂本龍馬がお龍さんと新婚旅行で訪れたことでも有名ですね。
- ・・・
- 但し、「 天孫降臨 」 の地には他にも候補地があり同じ名を持つ県北の 「 高千穂町 」 もその一つです。
有名ではありますが、「 さて誰が降りてこられた? 」 と問われると知らぬ人が多いかもしれません。
「 ニニギノミコト : 瓊瓊杵尊 」 と言われる神様です。
・・・
「 アマテラスオオミカミ : 天照大神 」 の孫 にあたります。
- 祖母と孫の関係です。同じ時間をいくらか生きて居たでしょう。
- ・・・
- 「 アマテラスオオミカミ : 天照大神 」 の弟は 「スサノオノミコト : 須佐之男命」 だとも。
- 「スサノオノミコト : 須佐之男命」 は、高天原から追放されて後に出雲の国を治めます。
- 「天孫降臨」 より前、「 オオクニヌシノミコト : 大国主命 」 が治める時代に高天原へ国譲りをします。
- ・・・
- 「スサノオノミコト : 須佐之男命」 と言えば海の神様です。
- 亡き母 「 イザナミノミコト : 伊邪那美命 」 に会いたいと泣き喚き天地に災いを起こしたと言います。
- その時代も地震・津波や火山噴火(日食じゃなくて)等大きな天変地異が多かったかもしれません。
日本昔ばなしみたいな、宮崎県地域振興課のサイトがありました。 ○ ひむか神話街道
○ 50の物語集-神話編 #10 : 天孫ニニギノミコトいよいよ地上へ
○ 50の物語集-神話編 #12 : 天の逆鉾が物語る天孫降臨
・・・・・・
・・・・・・
この 「 天孫降臨 」 が基点となり 、
今に繋がる 天皇を頂いている日本の国の歴史が始まる のですね。
・・・
これらの話は、8世紀頭 に編まれた 「 古事記 」 と 「 日本書紀 」 に収められています。
- 「 古事記 」 は 712 年、「 日本書紀 」 は 720 年の編纂です。
- 即ち奈良時代 ( 平城京造営 ) に入って直ぐの頃で、ようやく時代が安定してきたのでしょう。
加えて、日本の古代史の手掛りとして 「 魏志倭人伝 」 も外すわけにはいきません。
- 「 魏 」 は、三国志で有名な 「 魏・呉・蜀の ”魏” 」 です。 「 魏の曹操の ”魏” 」 ですね。
「 魏志倭人伝 」 は、皆さんも名前を御存知の 「 邪馬臺国 」 の存在を唯一著している書 です。
- これでなんとか 3世紀中頃 の日本のとある地域の様子が判るわけです。
- ○ Wikipedia : 邪馬台国 - 魏・晋との外交
- ○ Wikipedia : 卑弥呼
どうもこの 「 邪馬臺国 」 は海の民の国家のようです。
人々は刺青をし、体には赤土を塗り、一枚の白布を体に捲いている。
- そういえば、一夫多妻でもあったらしい。
残念ながら、日本には 「 邪馬臺国 」 に触れた書はない のです。
・・・
故に、皆が喧々諤々の論争を楽しんでいるというわけですね。
飲み屋で自分の意見だけに凝り固まっている人を見たら逃げるが勝ちです。巻き込まれないようにしましょう。
- 時々いらっしゃる 「 こういうもんはもっと腰を据えて読むもんだ! 」 と言う人には、岩波文庫が。
- ○ 古事記 (岩波文庫) 倉野 憲司
- ○ 日本書紀〈1〉 (岩波文庫) 坂本 太郎
- ○ 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫) 石原 道博
- ・・・
- 時々いらっしゃる 「 わざわざ金を使ってまでわね 」 という人には、WEB 上にも数多くのサイトが。
- ○ Google 検索 「 古事記 原文 」
- ○ Google 検索 「 日本書紀 原文 」
- ○ Google 検索 「 魏志倭人伝 原文 」
・・・・・・
・・・・・・
さて、話は 「 天孫降臨 」 でした。
・・・
ところで 「 ニニギノミコト 」 が高千穂峰に降り立つと時を同じくして、他の神様もあちこちに降り立ちます。
○ Wikipedia : 宗像三女神
○ 宗像大社 : 御祭神と由緒
○ 宇佐神宮 : 宇佐神宮について
○ Wikipedia : ニギハヤヒ
・・・ etc
記紀で 「 高天原 」 と称した強大国家から、或る時期に周辺各国へかなりの人々が送りこまれたのでしょう。
処によっては戦地前線部隊であったり、処によっては治世部隊であったり、処によっては輿入れであったりと。
そんな中、結果的に 天皇を生み出したのが 「 ニニギノミコト 」 の子孫 なのでした。
- その 「 ニニギノミコト 」 のひ孫が 「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 で、後に 初代天皇 に。
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
と、ここから佳境なのですが、息抜きに20行位でチャラチャラと書くつもりがなんとも長くなりました。
- 疲れてしまったので、・・・ 2回に分けることにします。
私のそもそもの関心は 「 宇佐神宮 」 と 「 伊勢神宮」 の地勢的相似 にありました。
続きを次回に振る前に ・・・
とりあえず、まずはこの地図だけでも見てもらっておきましょう。
※ クリックすると拡大図を表示 「1200*890px」
この位置関係、とても偶然とは思えません。底知れぬ意図を感じます。
まるで神様が雲の上から地上を見て、・・・
- 坂本龍馬がお龍さんと新婚旅行で訪れたことでも有名ですね。
- ・・・
- 但し、「 天孫降臨 」 の地には他にも候補地があり同じ名を持つ県北の 「 高千穂町 」 もその一つです。
有名ではありますが、「 さて誰が降りてこられた? 」 と問われると知らぬ人が多いかもしれません。
「 ニニギノミコト : 瓊瓊杵尊 」 と言われる神様です。
・・・
「 アマテラスオオミカミ : 天照大神 」 の孫 にあたります。
- 祖母と孫の関係です。同じ時間をいくらか生きて居たでしょう。
- ・・・
- 「 アマテラスオオミカミ : 天照大神 」 の弟は 「スサノオノミコト : 須佐之男命」 だとも。
- 「スサノオノミコト : 須佐之男命」 は、高天原から追放されて後に出雲の国を治めます。
- 「天孫降臨」 より前、「 オオクニヌシノミコト : 大国主命 」 が治める時代に高天原へ国譲りをします。
- ・・・
- 「スサノオノミコト : 須佐之男命」 と言えば海の神様です。
- 亡き母 「 イザナミノミコト : 伊邪那美命 」 に会いたいと泣き喚き天地に災いを起こしたと言います。
- その時代も地震・津波や火山噴火(日食じゃなくて)等大きな天変地異が多かったかもしれません。
日本昔ばなしみたいな、宮崎県地域振興課のサイトがありました。 ○ ひむか神話街道
○ 50の物語集-神話編 #10 : 天孫ニニギノミコトいよいよ地上へ
○ 50の物語集-神話編 #12 : 天の逆鉾が物語る天孫降臨
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この 「 天孫降臨 」 が基点となり 、
今に繋がる 天皇を頂いている日本の国の歴史が始まる のですね。
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これらの話は、8世紀頭 に編まれた 「 古事記 」 と 「 日本書紀 」 に収められています。
- 「 古事記 」 は 712 年、「 日本書紀 」 は 720 年の編纂です。
- 即ち奈良時代 ( 平城京造営 ) に入って直ぐの頃で、ようやく時代が安定してきたのでしょう。
古事記 (上) 全訳注 (講談社学術文庫 207)次田 真幸講談社 1977-12-08売り上げランキング : 14798 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本書紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)宇治谷 孟講談社 1988-06-06売り上げランキング : 14378 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
加えて、日本の古代史の手掛りとして 「 魏志倭人伝 」 も外すわけにはいきません。
- 「 魏 」 は、三国志で有名な 「 魏・呉・蜀の ”魏” 」 です。 「 魏の曹操の ”魏” 」 ですね。
「 魏志倭人伝 」 は、皆さんも名前を御存知の 「 邪馬臺国 」 の存在を唯一著している書 です。
- これでなんとか 3世紀中頃 の日本のとある地域の様子が判るわけです。
- ○ Wikipedia : 邪馬台国 - 魏・晋との外交
- ○ Wikipedia : 卑弥呼
どうもこの 「 邪馬臺国 」 は海の民の国家のようです。
人々は刺青をし、体には赤土を塗り、一枚の白布を体に捲いている。
- そういえば、一夫多妻でもあったらしい。
倭人伝を読みなおす (ちくま新書)森 浩一筑摩書房 2010-08-06売り上げランキング : 7738 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
残念ながら、日本には 「 邪馬臺国 」 に触れた書はない のです。
・・・
故に、皆が喧々諤々の論争を楽しんでいるというわけですね。
飲み屋で自分の意見だけに凝り固まっている人を見たら逃げるが勝ちです。巻き込まれないようにしましょう。
- 時々いらっしゃる 「 こういうもんはもっと腰を据えて読むもんだ! 」 と言う人には、岩波文庫が。
- ○ 古事記 (岩波文庫) 倉野 憲司
- ○ 日本書紀〈1〉 (岩波文庫) 坂本 太郎
- ○ 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫) 石原 道博
- ・・・
- 時々いらっしゃる 「 わざわざ金を使ってまでわね 」 という人には、WEB 上にも数多くのサイトが。
- ○ Google 検索 「 古事記 原文 」
- ○ Google 検索 「 日本書紀 原文 」
- ○ Google 検索 「 魏志倭人伝 原文 」
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さて、話は 「 天孫降臨 」 でした。
・・・
ところで 「 ニニギノミコト 」 が高千穂峰に降り立つと時を同じくして、他の神様もあちこちに降り立ちます。
○ Wikipedia : 宗像三女神
○ 宗像大社 : 御祭神と由緒
○ 宇佐神宮 : 宇佐神宮について
○ Wikipedia : ニギハヤヒ
・・・ etc
記紀で 「 高天原 」 と称した強大国家から、或る時期に周辺各国へかなりの人々が送りこまれたのでしょう。
処によっては戦地前線部隊であったり、処によっては治世部隊であったり、処によっては輿入れであったりと。
そんな中、結果的に 天皇を生み出したのが 「 ニニギノミコト 」 の子孫 なのでした。
- その 「 ニニギノミコト 」 のひ孫が 「 カムヤマトイワレヒコノミコト 」 で、後に 初代天皇 に。
・・・・・・
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と、ここから佳境なのですが、息抜きに20行位でチャラチャラと書くつもりがなんとも長くなりました。
- 疲れてしまったので、・・・ 2回に分けることにします。
私のそもそもの関心は 「 宇佐神宮 」 と 「 伊勢神宮」 の地勢的相似 にありました。
続きを次回に振る前に ・・・
とりあえず、まずはこの地図だけでも見てもらっておきましょう。
※ クリックすると拡大図を表示 「1200*890px」
この位置関係、とても偶然とは思えません。底知れぬ意図を感じます。
まるで神様が雲の上から地上を見て、・・・
こことここ、こっちが 「 うさ 」 、こっちが 「 いせ 」 と決めたような双子っぷりです。
- 北九州の地は時早く拓けましたから、幾つかの国が群雄割拠していたことは疑いありません。
- 「 魏志倭人伝 」 にも記述があるように。
- ・・・
- 「 くま 」 はそのまんま 「 熊 」 です。 「 くまくま 」 は 「 くまが重なる 」 で 「 熊襲 」 です。
- 端っこだから 「 くま 」 と呼んだのでしょうか。 そう、「 隈 」 です。
- それとも中枢権力側から見た手ごわい敵対勢力だから 「 くま 」 と呼んだのでしょうか。「 熊 」だと。
- 北九州の地は時早く拓けましたから、幾つかの国が群雄割拠していたことは疑いありません。
- 「 魏志倭人伝 」 にも記述があるように。
- ・・・
- 「 くま 」 はそのまんま 「 熊 」 です。 「 くまくま 」 は 「 くまが重なる 」 で 「 熊襲 」 です。
- 端っこだから 「 くま 」 と呼んだのでしょうか。 そう、「 隈 」 です。
- それとも中枢権力側から見た手ごわい敵対勢力だから 「 くま 」 と呼んだのでしょうか。「 熊 」だと。