スポンサーリンク


上記の広告は一定期間更新のないブログに表示されます。新しい記事を書く事で広告が消す事ができます。

 

Posted by みやchan運営事務局 at

02-3*時間軸no1:BC5,4世紀 -「呉」と「越」の滅亡

2018年02月10日

- 古事記は712年、日本書紀は720年に世界創生並びに我が国の建国を綴った歴史書である。
-
-  ネットで簡単に調べられるが、これまで全く関心のなかった人のために大まかなあらすじを記しておこう。
- 
- 幾人かの神様が出ては消えていくのだが、イザナギ・イザナミの2柱が現れ、数々の国や神を生んでいく。
-  ・・・
- ところが或る出産が元でイザナミが亡くなる。イザナギはイザナミを追いかけるが逆に諍いを起こしてしまう。
- ようやく逃げおおせたイザナギは、禊によりアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの3柱を生む。
-  ・・・
- アマテラスの孫にあたるニニギノミコトがこの地上界に下りてくることになった。天孫降臨である。
- ニニギの子である海幸彦、山幸彦にも諍いが起きるが、ワタツミの力を借りた山幸彦が家督を継ぐことになる。
- 遂には、その孫であるイワレヒコ、後に神武天皇となる人物が畿内大和に向け東征することとなる。
-
-  古事記・日本書紀を読んでいくと辻褄の合わない処や似た話が繰り返される処など散見されるのだ。
-  実の一人物が2つ3つの人物に分割されたり、複数の実人物が一人の人物に纏め上げられたり。
-  並行してあった史実を直列に並べたり、時代を前後していた史実を一緒くたにしたりひっくり返したり。
-  ・・・
-  よって記紀の解釈は多種多様にならざるを得ないのだけれど、そりゃないだろうと感じるものも多いのが現実で、
-  勿論、私の考えも他人様からは?かもしれぬが、長年あぁでもないこぅでもないと来たからにゃこれはもう致し方ない。


 ● ● ●

前回、前々回に渡って、古代の日本が「華南の海人の民の渡来」の影響下にあったことを確かめ、それが「イザナギ・イザナミの国産み」にも反映されていることを見てきた。

 ● 02 - 1:邪馬壱国の入れ墨、稲作に覗く華南の民
 ● 02 - 2:イザナギ・イザナミ国産みに潜む海人文化

しかしながら、「華南の海人の民の渡来」と言ったところで彼らがどのような状況下で日本列島に渡って来たかを知らなければ、その事実を確たるものにすることは出来ぬように思える。よって、云わば裏付けを取る意味をも込めて、当時の中国大陸と朝鮮半島の動静を掴んでおきたい。
 ・・・
大まかではあるが、BC5世紀からAD5世紀までの凡そ一千年の中国大陸と朝鮮半島の国々の勃興の歴史である。当初は一回の記事で済ますつもりでいたが、相応の分量になるため複数回に分けることとしたい。

 中国、殷(商)の滅亡

様々な国が興っては滅ぶ。その度に民族の移動が起こったようだ。その中で日本への渡来の可能性を秘めた国々の勃興を、大まかではあるが拾っていこう。
 ・・・
私たちが紀元前の中国の歴史でまず思い浮かべるのは「殷」であろう。殷は紀元前17世紀から前11世紀まで黄河中流から下流域に存続した。紀元前1046年頃に「周」に滅ぼされる。また紀元前12世紀頃にはに、殷に袂を発する民が満州、そして現在の北朝鮮へと移動し、「箕子朝鮮(きしちょうせん)」を興したとも言う。

 ● Wikipedia - 殷  ※ 近年では「商」とも言うようだ。
 ● Wikipedia - 箕子朝鮮

紀元前11世紀、12世紀と言えば、今より三千年以上も前のこと。かなり古い時代より、中国の中原地帯から朝鮮半島へと人が流れていたことを示している。 ● Wikipedia - 中原
 ・・・
日本は縄文時代の晩期に入り、程なくして「水稲」が渡来した頃に当たる。

 黄河流域以北で米は取れぬから、殷の滅亡と「水稲」渡来には直接の因果関係はないように思われる。
 が、「風が吹けば桶屋が~」的な玉突き事象は十分考えられるかもしれない。


はたして、日本に「水稲」を持ち込んだのは、誰たちなのだろうか。

 国中が小国分裂状態の春秋時代、覇権争いの戦国時代

「殷」を倒し中原を治めた「周」ではあったが、国というものはいずれ腐敗していく。そこで BC770年に洛陽へ遷都するも、その後も絶対的な統一する力はなく、国中が小国家の分裂した状態へと突入していく。そしてこれが紀元前221年に「秦」が全国統一するまで続くことになる。
 ・・・
この時代を、「春秋・戦国時代」を呼ぶ。

 大まかに分類すれば、● ~紀元前5世紀が「春秋時代」、● 紀元前4世紀~前3世紀が「戦国時代」
 ● Wikipedia - 春秋時代
 ● Wikipedia - 戦国時代(中国)

単純に BC770年から BC221年までとみても、なんと 550年間もの長い期間に渡って小国乱立の戦乱の時代であったことになる。国が興っては滅び、興っては滅んでいったことだろう。
 ・・・
そんな情勢下で「春秋時代」に名を揚げるまでになった国に、以下のような国々がある。

 ● 「周」,,「斉」,「晋」,「秦」,「宗」,「楚」,「鄭」,「燕」,「衛」,「魯」,「陳」,「蔡」,「」,「

勿論、「周」にはそれなりの権威があったようだが徐々に失墜、各地で諸侯達が独立を計り始め、もう何が何やら。そんな中で、周王に代わるだけの優れた人物も生まれており、これを俗に「春秋五覇」という。

五覇とされる人物

「五覇」という言葉は、『孟子』告子下に見えるが、孟子は斉の桓公以外の具体的な名前をあげていない。
後漢の趙岐注では
 ● 斉の桓公(在位紀元前685年 - 紀元前643年)
 ● 晋の文公(在位紀元前636年 - 紀元前628年)
 ● 秦の穆公(在位紀元前659年 - 紀元前621年)
 ● 宋の襄公(在位紀元前651年 - 紀元前637年)
 ● 楚の荘王(在位紀元前614年 - 紀元前591年)
の5人を挙げている。応劭『風俗通義』五伯篇[1]、『史記』十二諸侯年表につけられた唐の司馬貞『史記索隠』も同様である。

これに対して、『荀子』王覇篇では、秦の穆公・宋の襄公がなく、それにかえて
 ● 呉王闔閭(在位紀元前515年 - 紀元前496年)
 ● 越王勾践(在位紀元前496年 - 紀元前465年)
の2人をあげている。
 ※ Wikipedia - 春秋五覇 より引用

 ・・・・・・
 ・・・・・・

幾多の栄枯盛衰の後、BC403年に「晋」が「韓」・「魏」・「趙」に分裂する。これ以降を「戦国時代」と言う。そして戦を交える中で段々と限られた強国に絞られていくことになる。それらの国々が「戦国七雄」である。

戦国七雄

春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。
 ● 韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
 ● 趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
 ● 魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
 ● 楚(? - 紀元前223年)
 ● 燕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)
 ● 斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
 ● 秦(? - 紀元前206年)
 ※ Wikipedia - 戦国時代 (中国):戦国七雄 より引用

この後、一時的に「趙」,「秦」,「斉」の三つ巴へと変遷するが「趙」が弱体化、「秦」・「斉」の二強時代となる。そして遂には BC221年に「秦」が「斉」を滅ぼし、天下統一を果たすことになる。

 海人の国、「呉」と「越」の滅亡

これら春秋・戦国時代に名を馳せた国々の中で、我が国にとって特に重要な国が「呉」と「越」だ。
 ・・・
取りあえず、時代を把握したい。図表を作ったので見てもらおう。

 
  ※クリックで拡大 「 1050*1430 」 : Fig●中国・朝鮮半島 [時間軸] 01 - 海人国「呉」「越」の滅亡


「呉」と「越」は、どちらも長江の河口域に栄えた国である。「呉越同舟」の「呉」と「越」だ。

 
  BC500年頃,春秋時代:世界の歴史まっぷ

「呉」は現在の蘇州辺り、「越」はその南の銭塘江沿いにある杭州・紹興辺りと考えれば判り易いだろう。

「呉」 ● Wikipedia - 呉 (春秋)
「越」 ● Wikipedia - 越

「呉越同舟」とは言うものの、実は争いが絶えなかった。またこの二国に加え長江を上った中流域の「楚」も交え、三国でやったりやられたりの繰り返し。

呉越同舟(ごえつどうしゅう)
仲の悪い者同士や敵味方がいっしょになって行動をともにすること、また、いざという急場には敵味方を忘れて互いに助け合うことをいう。
 中国、戦国時代の呉と越の両国は、実力伯仲の好敵手で、「呉越」の語は仲の悪いたとえとされていた。その不倶戴天(ふぐたいてん)の敵同士が、一つの舟に乗って、仲よくしているのを諷(ふう)した語で、『孫子』「九地篇(へん)」に「呉人、越人と相悪(にく)むなり。其舟(そのふね)を同じうして済(わた)って風に遇(たまたま)に当たりて、其の相救うや、左右の手の如(ごと)し」などとある。[田所義行]

 ※ コトバンク:日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 より

しかしながら、「越」を破りこの華南地域で覇権を取ったはずの「呉」が、帰従した振りの「越」にまんまとしてやられ、ついに BC473年に滅びてしまう。
 ・・・
その後、「呉」を滅ぼし眼の前のたんこぶがなくなった「越」は山東省まで北進し遷都する。東シナ海に面する広大な領地を抱える強国となるものの、弱肉強食の戦国時代を生き抜くには王がその器に非ずで、BC334年に「楚」に敗北し実質的な滅亡に至る。華南の地は、「楚」の一人勝ちの状態でそのまま BC3世紀へと時を刻んでいく。

 邪馬台国には「呉」と「越」の民がいた

さて何故に「呉」と「越」の二国が重要なのかだが、そのことについては既に以前の記事で述べている。
 ・・・
それは、「魏志倭人伝」で「邪馬台国」の人々が「呉」と「越」の海人であった可能性を示唆しているからだ。

2018/01/20
02-1:邪馬壱国の入れ墨、稲作に覗く華南の民

・・・ さて特に注視したい項目が、邪馬壱国の人々が海人であったことの事実と、それ故の顔・体に入れた入れ墨への言及だ。ここから彼らの素性を知ることが可能となる。
 入れ墨はおそらく魏の役人にとっても眼を惹くものだったのだろう、項目のトップで挙げている。
その言及の重要さは、遠く紀元前5~4世紀に中国は華南にあった「呉」「越」の人々の入れ墨に似ていることとの関連だ。彼らは海人でもあったし、加えて華南という稲作文化の先進地の民でもあった。 ・・・


BC10世紀には水稲が伝来していたことから、遥か昔より日本列島へ華南の海人達が渡来していたことは確かだろう。長江から東シナ海に出れば、眼の前には北上する海流がある。

 東シナ海や黄海で生まれたエチゼンクラゲが対馬海流に乗って日本海に入り込んできたことを思い出す。
 それらの海ををよく知る海人にとっても、対馬海流は身近にある知識だったはずだ。


しかし中国での国の興亡を見ていくと、国家滅亡時の他国への逃走、脱出が如何に多いかを知ることが出来る。その事実を踏まえれば、BC5世紀に「呉」の民が、BC4世紀に「越」の民が、海を越え新たな土地を求めてこの日本に渡来した確率は非常に高いように思う。

 ・・・ 次回は、*時間軸no2 として戦国時代を制した「秦」の国家統一とその滅亡の時代を追ってみる。