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Posted by みやchan運営事務局 at

02-3*時間軸no2:BC3世紀 - 戦国時代,「秦」興亡の余波

2018年03月17日

- 古事記は712年、日本書紀は720年に世界創生並びに我が国の建国を綴った歴史書である。
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-  ネットで簡単に調べられるが、これまで全く関心のなかった人のために大まかなあらすじを記しておこう。
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- 幾人かの神様が出ては消えていくのだが、イザナギ・イザナミの2柱が現れ、数々の国や神を生んでいく。
-  ・・・
- ところが或る出産が元でイザナミが亡くなる。イザナギはイザナミを追いかけるが逆に諍いを起こしてしまう。
- ようやく逃げおおせたイザナギは、禊によりアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの3柱を生む。
-  ・・・
- アマテラスの孫にあたるニニギノミコトがこの地上界に下りてくることになった。天孫降臨である。
- ニニギの子である海幸彦、山幸彦にも諍いが起きるが、ワタツミの力を借りた山幸彦が家督を継ぐことになる。
- 遂には、その孫であるイワレヒコ、後に神武天皇となる人物が畿内大和に向け東征することとなる。
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-  古事記・日本書紀を読んでいくと辻褄の合わない処や似た話が繰り返される処など散見されるのだ。
-  実の一人物が2つ3つの人物に分割されたり、複数の実人物が一人の人物に纏め上げられたり。
-  並行してあった史実を直列に並べたり、時代を前後していた史実を一緒くたにしたりひっくり返したり。
-  ・・・
-  よって記紀の解釈は多種多様にならざるを得ないのだけれど、そりゃないだろうと感じるものも多いのが現実で、
-  勿論、私の考えも他人様からは?かもしれぬが、長年あぁでもないこぅでもないと来たからにゃこれはもう致し方ない。


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中国大陸と朝鮮半島の国々の興亡を時間軸で押さえる、その2回目である。前回は、春秋・戦国時代(BC5,4世紀)の「呉」と「越」の滅亡を追ってみたが、

 ● 02-3*時間軸no1:BC5,4世紀 -「呉」と「越」の滅亡

今回は、戦国時代を最終的に制した「秦」の勃興と、更にはその滅亡が他国に与えた影響の具合を見て行こう。

 弱肉強食の戦国時代の七雄

「周」の覇権が弱まり洛陽に遷都したBC770年から、「秦」が全国を統一したBC221年までを「春秋・戦国時代」とする。その内、前5世紀までを「春秋時代」、前4,3世紀を「戦国時代」と見ておいて良いかと思う。

 「周」はBC1,046年頃に「殷(商)」を倒し中原を制した王朝。~BC771年を「西周」、BC770~BC256年が「東周」。
 封建制で国を治めたことで知られる。また「西周」は孔子が範を求めた国ともされる。


130ヶ国とも言われる小国乱立状態であった「春秋時代」も350年余経れば、次第に国家間の争いも弱肉強食化していくと言うもの。それが顕在化した出来事がBC403年の「晋」の「韓」,「魏」,「趙」への3国分裂だ。ついに「戦国時代」へと突入したわけである。

 ● Wikipedia - 戦国時代(中国)
 ● Wikipedia - 晋 (春秋)

三つ巴ならぬ何つ巴なのか、闘ったり助け合ったり、昨日の友は今日の敵、昨日の敵は今日の友、北に敵かと思えば南から、西かと思えばあら東、てな具合で何時しか七つの強国の覇権争いに収束していくことになった。
 ・・・
前回にも紹介したが、その七国を挙げておこう。「戦国七雄」である。

戦国七雄

春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。

 ● 韓(紀元前403年 - 紀元前230年)  ---  「晋」分裂
 ● 趙(紀元前403年 - 紀元前228年)  ---  「晋」分裂
 ● 魏(紀元前403年 - 紀元前225年)  ---  「晋」分裂
 ● 楚(? - 紀元前223年
 ● 燕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年
 ● 斉(紀元前386年 - 紀元前221年
 ● 秦(? - 紀元前206年

 ※ Wikipedia - 戦国時代 (中国):戦国七雄 より引用、滅亡年を太赤字に加飾

地理的には、中国の要である中原を押さえていたのが「晋」が分裂した後の「韓(中原南側)」と「魏(中原北側)」、その北方の黄河が北から南へと流れてくる中程の東域、現在の山西省辺りが「趙」である。
 ・・・
その東の渤海に面した北域に遼東半島までを「燕」が、山東半島を含む渤海の南側に「斉」があり、その南にあった「楚」は華南を独り占めだ。
 ・・・
そして中原の西、中国本土から見ても最も西域の地に「秦」がある。現在の陝西省を中心に甘粛省、四川省辺りで覇権を築いていた。

 
  BC315年頃-戦国時代:世界の歴史まっぷ

 中原国家「晋」と分裂後の「韓」,「趙」,「魏」の興亡

さて、上記の引用文にある各国の滅亡年を確認してもらいたい。数百年を経て来たと言うのに、BC230年の「韓」の滅亡からBC221年の「斉」の滅亡までの期間は僅か10年余りなのだ。この事実を知ると、天下を取った「秦」が有していた破壊力の凄まじさに恐れ入るしかない。
 ・・・
では、戦国七雄の国の興亡をざっくりとだが順に見ておこう。まずは、中原を支配していた「晋」である。

「晋」 ● Wikipedia - 晋 (春秋)

* 興 )「周」の2代王であった成王が弟の虞に、現在の山西省にあった「唐」を滅ぼし封じたとする。従って国の始まりは「周」と同じくBC11世紀のことになる。当初はそのまま「唐」を名乗るが、後に「晋」に改めた。
 ・・・
* 亡 )春秋末期に5氏6家系で内政を敷くようになっていたが、内紛を繰り返した後に周の威烈王から諸侯に列せられた「韓」,「魏」,「趙」の3国が独立する。BC403年のことである。この時点で「晋」は実質的に滅びたと言えるが、四半世紀経ったBC376年に「韓」「魏」連合軍によって遂に息の根を止められる。

「韓」 ● Wikipedia - 韓 (戦国)
「趙」 ● Wikipedia - 趙 (戦国)
「魏」 ● Wikipedia - 魏 (戦国)

* 興 )其々が「晋」の六卿の一つであり、BC403年に分裂独立する。
 ・・・
* 亡 )西方の「秦」によって、「韓」はBC230年に、「趙」はBC228年に、「魏」はBC225年に滅ぼされた。

 華南の「楚」、渤海北岸の「燕」の興亡

さて、「倭(日本)」への影響を考慮すべきは残りの4国であろう。いずれも海を隔てて「倭」と接していた国々である。今回も年代図表を見ながら、まずは「楚」から。

 
  ※クリックで拡大 「 1050*1430 」 : Fig●中国・朝鮮半島 [時間軸] 02 - 「秦」興亡の余波

「楚」 ● Wikipedia - 楚 (春秋)

華南と言えば、前回記事で触れた「呉」と「越」を思い出すが、「越」が「呉」を滅ぼし、その「越」を滅ぼしたのがこの「楚」である。

* 興 )大元の出自は不明のようである。黄河流域説と長江中流域説があり判然としていない。ただ春秋時代を通じて長江下流域に「呉」,「越」が並立していた折はその中流域に領域を構えていた。BC334年に「越」を滅ぼしたことで東シナ海に接する広大な領土を有する国となる。
 ・・・
* 亡 )七雄の中でも「秦」と「斉」は強国であり、領土の広い「楚」は双方と国が接する。BC3世紀に入ると、故に国政が親「秦」派と親「斉」派に二分されることとなるが、親「秦」派の籌略に踊り踊らされ、その後は雪崩を打つように国は瓦解していく。結局は、BC223年に「秦」によって滅ぼされてしまった。

「燕」 ● Wikipedia - 燕 (春秋)

現在の北京市や遼寧省、そして遼東半島辺りまでを制していたのが「燕」である。首都はその現北京市だ。

* 興 )興こりは古く、「周」と同時代の BC11世紀とする。「晋」建国と同様に「周」の2代王成王の時に北京市辺りに封じられ「燕」と名乗り始めたようだ。

 それまでこの地には「韓」があったのだが、中原の西、現在の陝西省に移封される。
 そこで建国した「晋」の公族となるが、上で述べた如くやがては「韓」として独立することになる。
  ・・・
 しかし「韓」の住民のなかにはそのまま「燕」に残ったものも多く、彼らは「韓氏」を名乗ったと言う。


* 亡 )BC315年、「斉」に国政の隙を突かれ一時滅びてしまうが、すぐに再興。暫くしてBC284年には、云わば中興の祖とも言うべき昭王が「斉」を撃破し、山東半島まで領土を拡大した。また時の国力に任せて朝鮮半島北部をも手中に収めるに至った。しかし、昭王死後は腹心を抱えきれず弱体化、また「秦」との間にあった「趙」が滅ぶと「秦」と直に接することとなり、遂にはBC222年に滅ぼされた。

 BC284年の戦いは、「燕,秦,趙,魏,韓」の五国連合軍 対 「斉」の戦い。

なのだが、これがなんとまぁ盤石と思われた「秦」の天下も長くは続かなかった。BC209年に「燕」は建て直しを図る。しかし云わば時代の変わり目の蠢動に真の力を蓄えるには至らない。「西楚」の項羽に立てられた臧荼、「漢」の劉邦に立てられた盧綰と相次いで失脚、結局はその「漢」によってBC195年に終焉を迎える。

 ついに、残るは「秦」と「斉」の二国のみ

七つあった雄国も次々と「秦」の前に敗れて行き、ついに残るは「斉」のみとなった。「斉」は渤海南岸に山東半島まで含んだ地を治めていた国である。
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「斉」は時代によって大きく二分される。前期を「姜斉」、後期を「田斉」とする。これはクーデターにより支配者が替わったことに依るものだ。戦国七雄の「斉」はこの「田斉」を指す。

「斉」 ● Wikipedia - 斉 (春秋) ● Wikipedia - 田斉

* 興 )そもそもは「殷(商)」を破った功績により、「周」の軍師呂尚がBC1046年にこの地に封じられたことに始まる。春秋時代を通じて強国であり、BC7世紀の第16代桓公は春秋五覇の一人として尊ばれもしたが、BC386年に言うならば摂政役である田和のクーデターでそれまでの「姜斉」は息絶える。以降は「田斉」と呼ばれる。

 呂尚については、俗称の「太公望」の方が有名だろう。言うまでもない、無類の釣り好きである。
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 ところで「姜斉」と言う名から、渤海に面した地にやって来たのは羌族であることが伺われる。
 羌族はチベット族の一つで、中国西域に興った「秦」のまたその西方の青海省、甘粛省辺りに居た民族である。
 現代の羌族はチャン族と呼ばれているようだ。 ● Wikipedia - 羌 ● Wikipedia - チャン族
  ・・・
 アミニズムに根差した宗教観や言語、習俗など、日本人との類似性を説かれることも多い。


* 亡 )まだ七雄が共存していたBC284年に「楚」を除いた五国連合軍に大敗して以降は他国との争いを避けつつ存命したが、他国が全て滅ぼされ、「秦」との全面対決となればもはや已む無し。BC221年に滅亡。

 ■「製鉄」,「製塩」,「機織り」の国だった「斉」

「斉」については、触れておかなければならない彼の国ならではの特質がある。
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この国が「製鉄」と「製塩」、並びに「機織り」で富を築いた大国であったことだ。また農業を促進するために開墾事業も盛んであったことから「土木」技術も持ち合わせていたことが判る。最初にこれらの技術を日本に持ち込んだのは、この「斉」の民だったのではなかろうかと睨んでいる。

 世紀を跨いでAD4世紀に渡来した「秦氏」も土木、製鉄、機織りの匠集団であり、新しい宗教を持ち込んだ民だった。
 そして「羌族」と同じ中国西域の「月氏」とも言われる渡来人である。この事実は実に面白い。


 ついに天下統一、「秦」に始皇帝あり

遂にBC221年、「秦」は天下統一を果たす。時の王は皇帝を名乗る。あの「始皇帝」である。

 
  ~BC214年,秦の統一領域地図:世界の歴史まっぷ

「秦」 ● Wikipedia - 秦

* 興 )春秋時代はBC8世紀に「周」への軍功により、長安の西方450km程にある西戎の地を封じられたことに始まる。BC7世紀も後半に入ると強国へと発展、隣国「晋」との争いが絶えぬようになる。
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* 亡 )他国滅亡の様子を見て来たら判る通り、戦後時代のBC3世紀に入ってからの勃興は凄まじい。特に目前の敵を一つづつ確実に仕留めていく手腕には恐れ入る。が、あっけなく始皇帝が死んでしまっては元も子もない。統一して僅か15年後のBC206年に滅亡、首都咸陽も廃墟と化す。後の天下は「漢」劉邦と「西楚」の項羽のいずれかに預けられることになった。

 この15年がどの程度の期間だったかピンと来ない人は「豊臣政権」を思い浮かべるとよい。
 秀吉が関白となった1585年から1600年の関ヶ原の戦までの、なんと実質的にゃピッタリ15年間だ。


 ■ 日本へ渡来?「徐福伝説」と「万里の長城」労役からの解放

天下統一の期間は短かったが、「秦」の残した政治、経済に於ける功績を忘れてはいけない。しかし、そこは当ブログの主題から外れる。ここでは日本への影響が考えられる出来事を2点挙げておきたい。
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まずは「徐福(徐市)」の渡来伝説だ。始皇帝の命で不老不死の薬を求めBC219年に日本に渡来したという伝説である。そのことが司馬遷が著した「史記」に書いてあったと言うわけだ。

徐福 - 『史記』による記述

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

※ Wikipedia - 徐福 より引用

「斉」の人であり、元「越」の地から出航したと言う点も興味の惹かれる処である。しかし徐福伝来地については日本各地にその伝承があり、どことは確定できない。しかし、大船団を組んでこれだけの人数の多さと技術の携行があったとするならば、それは当時の日本に相当な影響を及ぼしたであろうことは間違いない。

 ・・・・・・

そして、二点目が「万里の長城」の建設である。北方の「匈奴」に対する防御として造られたものだ。

 BC214年から、国境を接していた「秦」,「趙」,「燕」がそれまでに築いていた長城を整備し直していく。
 ● 万里の長城.世界7大奇跡の1つ - AraChina中国旅行
 ● Wikipedia - 万里の長城
 但し、「楚」なども長城を造っていたことが明らかになっているし、全ての長城が「匈奴」対策と言うわけではなかろう。


関心は、この長城建設には奴隷となった他国の民が大勢動員されたことだ。工事が始まる数年前に他国は次々と「秦」の前に敗れた。建設に必要な労働力は至る処で確保できたと考えてよい。

 特に華南にあり蛮民と見做されていた「楚」人に対する扱いは酷かったようである。
 それに華南と華北じゃ気候も違えば、言葉も違う。何てったって食事が全く違ったはずだ。こりゃ苛酷だ。


ところがだ、いざ「秦」が滅びる、いや滅びたと知れば、当然だが労役など知ったこっちゃない。長城なんぞとっとと放り出して逃げ出すのは必至ってもんだ。問題はどこに逃げるかである。危険から遠ざかる。より安全と思える方へ逃げる。悩んだ時に、それが朝鮮半島であり日本列島であった可能性は高い。

 敵の正面に逃げるのは島津義弘くらいのもんである。

短い間に国が幾つも滅びた。苛酷な労役を担わされ、遂にそこから解放される時が来た。多くの民が新天地を求めて中国を離れることになったこの僅かな「秦」興亡の十数年は時代の一大変革期と言ってよい。


 ・・・ 次回の*時間軸no3 は、もうしばらく「秦」滅亡後の中国を追ってみたい。