これで決まり邪馬台国 - 道程別路の陸行と水行 : 上

2018年01月18日

● 追記 : 修正(最終)稿 「(改訂) これで決まり邪馬台国 - やはり九州・筑後そして日向へ」を投稿

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日本の古代史は謎だらけですから人々の興味を惹きつけて止みません。
中でも論争が止まないものは 邪馬台国神武東征 の二大テーマでしょうか。

 - 差し当たっては 「 邪馬台国 」 としましたが、本当は 「 邪馬壱国 」 だとの説もあります。
 - 魏志倭人伝は 「 邪馬壱国 」 と記載。よって以降は 「 邪馬壱(台)国 」 との書き方を基本にします。
 - 
 -  ○ Google検索 : 邪馬壱国 邪馬台国

私はと言えば、故郷が都城ということもありますから、
これまでは 「 邪馬台国 」 よりも 「 神武東征 」 への興味が勝っていました。

 ● ここが「宇佐」、ここが「伊勢」の神武東征 : 上
 ● ここが「宇佐」、ここが「伊勢」の神武東征 : 下
 ● 2-9:行きはよいよい、帰りは?の九州一周:神武東征ルート

 - 偶に奈良・橿原~大阪・柏原辺りへ出かけた時などは、
 - 至る所で私の名を呼ばれている気がしますから尚更です。

が、暫く前にある調べものをしていたら偶々 「 稲作伝来 」 のサイトが目に留まり、

 - 以前は日本への 稲作伝来は半島経由との説 でした。
 - しかし近年の科学的研究によれば、その説は 完全否定された らしいのです。

育った環境故の感覚的な勘に光明が!それまであった違和感が一気に解消されたのでした。

  ・ ※ 注釈追記
  ・   既に居住していた縄文系と半島経由で渡来してきた弥生系という単純な2項軸への違和感。
  ・   渡来して来た弥生系にも多様な民族がいたのではないかと思い続けていた為。

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稲作伝来は弥生時代との定説を覆し、縄文後期まで遡るとのこと。

 - おそらく 「 神武東征 」 は3世紀末 ( か、4世紀初頭 ) の古墳時代ですが、
 - 俄かにそれより古い時代の 「 ~弥生時代 」 に興味が湧いて来ました。

邪馬台国、特に魏志倭人伝に登場する 「 卑弥呼 」 の時代が 弥生後期の3世紀前半
この時代に未だ文字による記録は日本にありません。唯一の頼りは 「 魏志倭人伝 」 です。

 - 固有名詞は、当時の倭人の喋る言葉の中国風当て字。
 -「 邪 」や「 卑 」など故意に相手を見下した文字を用いているのは今も昔も不変、ご愛嬌。
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 - また 「 卑弥呼 」 は個人名ではなく、職名と考えられる。 (※ 「ひ」の「みこ」?)

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何はともあれ、魏志倭人伝に記してある 道程 を( 初めて )書き起こしてみたわけです。


  これで決まり邪馬台国 - 道程別路の陸行と水行 : 上 書き起こしメモ
   ※ クリックすると拡大図を表示 「700*1000px」
   ※ 帯方郡(不明)~狗邪韓国(不明)、及び末廬國(唐津/松浦)に至る途中の對馬國(対馬)と一大國(壱岐)は省略。


 - 大元資料の魏志倭人伝・道程 ○ Wikipedia - 「魏志倭人伝」中の“邪馬台国” - 道程


メモを取りながら、あちらこちらの説を覗き見つつ ほぅ!へぇ!はぁ? と情報を仕入れつつ、
その節目節目で生じた疑問や私なりの考えを書き連ねながら坦々と旅に出かけましょう。


■ 魏の出張行政機関: 帯方郡船で 旅立つ。
■ 朝鮮半島の西岸~南岸伝いに 狗邪韓國 に到着。

 □ 帯方郡・・・・・・・・・・?(ソウル近辺?)
 □ 狗邪韓國・・・・・・・・?(朝鮮半島南岸)

 - この時代の朝鮮半島は三韓時代と呼ばれる実質的に中国国家の周辺属州状態。
 - よく耳にする 百済・新羅・高句麗の三国時代 は凡そ百年後の4世紀後半~。
 - ・・・
 - 狗邪韓國は、朝鮮半島南端の一部にあるが、女王国:邪馬壱(台)国の管轄下にある。
 - 即ち、九州~朝鮮半島の海域には邪馬壱(台)国の力が及んでいる と言っていい。
 - - ジブラルタル海峡を挟んでアフリカにあるスペイン領のセウタ、メリリャのような関係?
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 - 邪馬壱(台)国を含め道程に出てくる國々の 倭人は海人(※あま⇒天)の民 で間違いない。

■ いよいよ海超え。對馬國 、そして 一大國 と渡って 末廬國 に至る。

 □ 對馬國・・・・・・・対馬 : 1.000戸
 □ 一大國・・・・・・・壱岐 : 3.000戸
 □ 末廬國・・・・・・・松浦 / 唐津 : 4.000戸

 - 岸沿いの水行から変わって海洋横断による航海にて九州へ。
 - それぞれ方角と距離は記してあるが、渡航日数は不明。

■ 末廬國で 船を下り、外交窓口?の 伊都國 に向けて 陸行

 □ 伊都國・・・・・・・糸島 / 前原 : 1.000戸

 - Q伊都國も海に面しているはずだが、何故末廬國で下船したのだろう?
 - ・・・
 - - 単に地形の問題か、或は外交的思惑( 防御トラップ )か?
 - - 倭人伝に勝手な諸国間交易を禁止していた旨の記載がある。セキュリティ感覚は徳川政権並。

■ 伊都國から 更に陸行奴國 に向かう。

 □ 奴國・・・・・・福岡 / 博多(※志賀島より金印出土) : 20.000戸

 - Qここで船を留め置いた末廬國へと戻るかと思いきや、その先へと陸行を選択したのは何故?
 - ・・・
 - - 幾つもの邪馬台国論を見たが、末廬國に置いてきた船がほったらかし。言及しているものが無い。
 - - 後に再度水行が出てくるのだが、どの論も船を担いで歩いて行ったとでも思っているのだろうか。
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 - 奴國の南には、女王国唯一の敵対国 : 狗奴國 (場所?、人口?)がある。

■ その奴國を抜け、更にその先の 不彌國 まで 陸行

 □ 不彌國・・・・・・?(博多近辺:奴國から100里) : 1.000戸

 - Q遥かに大きな奴國を通り越し、わざわざ小さな國に歩みを進めたのは何故だ?
 - ・・・
 - - おそらく 不彌國が奴國の港町の役割 を担っていた。奴國は船留が無理だったと推測。
 - - 末廬國で使節団責任者一向を下ろした後、船は別行動にて不彌國へ水行直行 する。
 - - 両者は港町である不彌國にて再び合流する。(※旅の段取りとはこういうもんだ)
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 - ところで、弥生時代の海岸線は、現在よりも大きく内陸に寄っていたことは確かなようだ。
 - また、この弥生時代には博多湾と有明海が繋がっていたという説もある。
 - - つまり、不彌國の現在地が海に面していない可能性は大、ということだ。

■ 不彌國から 水行20日投馬國水行10日・陸行1月邪馬壱(台) に着。

 □ 投馬國・・・・・・・・? : 50.000戸
 □ 邪馬壱(台)國・・・・・? : 70.000戸

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さて、邪馬壱(台)國はどこにあったか?諸説が入り乱れている原因 は、
「 陸行 」 の後に再び現れた 不彌國からの 「 水行~ 」 の文言解釈 にあります。
おまけに経由地である 投馬國の現在地が特定できぬことも 重なり、兎にも角にもグダグダな有様です。
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単純に道程数値を足し算をしてしまうと邪馬壱(台)国は太平洋上に飛び出してしまうと言うので、
方向オンチを正当化する奴が出るわ、伊都國が地球の中心だと叫ぶ奴はいるわ、と始末が悪い悪い。

 - ● 例えば、出土遺物を武器に一時優勢を極めていた愚かな畿内説
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 - - 当時の対外力で、海から引っ込んだ畿内の地でカウチで寝そべってポテト食いながら・・・
 - - 瀬戸内の諸国や北九州、はたまた海を隔てた対馬海峡までを管理できていたとでも?
 - - ・・・
 - - 加えて、3世紀後半以降の畿内歴史の流れを上手く説明した畿内説の論を見たことがない。
 - - 畿内にも相応の国家があった、でいいのではないか。
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 - ● 例えば、それまでは順序良く来ていたものが、突然伊都國が起点の 愚かな放射説
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 - - 投馬國、邪馬壱(台)國へはこの伊都國から船を出せるといきなり言い出すのであるが、
 - - であれば、何故わざわざ末廬國で船を下り視界不良の葦原をかき分けてまで歩いたのか?
 - - ・・・
 - - よしんば 愚かな放射説 の派生説、起点中心が港のある末廬國であるとしても、
 - - 特別に奴國や不彌國まで歩いて行った目的がいったい何なのかに答える必要があるし、
 - - 特段の意味がないのなら、その他 2120ヶ国(※奴國重複考)に放り込んで〆、のはず。

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幾つか邪馬台国論を拝見。もしこれらの人からツーリングに誘われても丁重にお断りするかな。
実に酷いから。旅をしたことのない人間が、机上の旅ごっこをしているとしか・・・

では、ここいらで一旦私なりの「 道程 」最終イメージ を纏めておきたい。


まず「 水行~ 」の考え方は、末廬國から不彌國までは二手に別れる ことに気付きましょう!

  - 「 水行 」 の行程だけに着目してみれば異なる風景が見えてくる。
  - 水行に 「 末廬國~伊都國~奴國~不彌國 」 の陸行行程を勘定することの方がおかしい。

  帯方郡(or狗邪韓国)~投馬國 の船旅が 南へ水行20日と判明。

また、私の見た 全ての邪馬台国論が往路だけの検討 でした。復路は?どうなってるの?

  - 来た道をそっくりそのまま帰るような「逆向き陸行:不彌國⇒奴國⇒伊都國⇒末廬國」をする?
  - 通常感覚ならば、船による水行だけで帰路に就く でしょう。
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  - 場合に依れば、投馬國を出て直に朝鮮半島へ向け船を漕いだかもしれない。
  - 復路への考察も重ね併せれば、上の 「 南へ水行20日 」 はより妥当性を増す。
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  - 皆に解るように言い換えてみよう。復路「投馬國から北へ水行20日」である。

さて、投馬國帯方郡(or狗邪韓国)から南へ水行20日 の場所にあるとすると、

  - 適合する処は、現在の 関門海峡・門司~下関の両岸地域 しかありえない。
  - 
  - 畿内説で福山の鞆の浦を投馬國とする説がある。が、ここは 早鞆瀬戸 の名を持つ。
  - また、下関は古くは(赤)馬関の名でも知られていることも書き加えて置く。
  - ・・・
  - 台国論諸説が、これ程の地勢的重要なポイントを押えていないことも不可解だ。

本丸の邪馬壱(台)国 へは投馬國から「南へ水行10日、陸行1月」 とされる。

  - 議論の一つが、この「水行、陸行」の並記が「and」なのか「or」なのかだ。
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  - 考慮すべきは、関門海峡が現在でも危険を伴う航路であること。
  - 天候、潮の満引き等人智を超える難所だ。況してや3世紀という現実を鑑みる。
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  - 水行を陸行に切り替えねばならぬ状況も多々あったはずだ。故にorとしたい。

ここで、念のため邪馬壱(台)国海に面した国家 であったことを再確認したい。

  - もう一度、上のメモ書きを見直してみる。
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  - 倭人は海人である。また対馬海峡は邪馬壱(台)国の管理下にある。
  - (投馬國から)水行10日の後に陸行1月の場所に居てそんな強権が発揮できるとは思えない。


納得できる邪馬壱(台)国論に出会えなかったことで深入り。しかし楽しめます。
上に記した私なりの解釈を直に地図の上に落しましたが、それは次回に廻すことにします。
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魏志倭人伝に記載の倭国は、どこをどう読んでも九州のお話。ではまた。




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