(改訂) これで決まり邪馬台国 - やはり九州・筑後そして日向へ
2018年01月18日
やはり筑後。そして日向。
・・・・・・
- 以前の記事にも書いたが、畿内説にはなるほどと頷ける言説がない。
- まずは、その方向音痴ぶり。そして九州から奈良に行くまでの壮大な空白。
- 更には、倭人伝に謳われている風俗とのかい離。
- ・・・
- 後の大和政権と邪馬壱国とに連続性はほとんど(「ほとんど」については後述)ない。
- 考えれば考えるほど、九州説しかありえないように思える。
ということで、取りあえず以前記事時の考察要点を再掲しておきたい。
● 邪馬壱(台)国以下、倭人は海人の民 である。
● 対馬海峡~朝鮮半島南岸 まで 邪馬壱(台)国の管理下 にある。
※ 畿内からでは到底無理だろう。
● 伊都國は倭国の外交窓口、不彌國は奴國の港町 の役割を担っていた。
● 伊都國と奴國には港が無かった 故に陸行が行われた。
これらの倭国事情から見えて来たものは・・・
● 「南へ水行20日」 は 「帯方郡(or狗邪韓国)~投馬國」 の意。
- 復路で考えれば、「投馬國~帯方郡(or狗邪韓国) が 北へ水行20日」と言換え可。
●投馬國 は現在の 関門海峡・門司~下関の両岸地域 が地勢的にも理。
●投馬國 から「南へ水行10日」 OR 「陸行1月」で 邪馬壱(台)国。
その後、上記の下2項目について考えを改めるに至ったので、修正・最終稿としてそれを纏めてみたい。
・・・・・・
・・・・・・
上記項目について何故そう考えるに至ったかを再度おさらいしておこう。
■ 魏の使いは帯方郡から舟に乗ってやってくる
まずは 魏志倭人伝 に記述の 「帯方郡から邪馬壱国までの道程」 を押さえておかねば。
項目1~4 までは、倭国に上陸するまでの海渡りの道程でここに異論を挿む余地はないであろう。
※クリックで拡大 「 860*860 」 : 帯方郡~末盧國
最初の疑問は、「末盧國」に上陸した後「伊都國」に向かうのは何故か。そしてなぜ陸行きかである。
■ 「(主)國+(副)國:港」 のセットで本来の一國の都市構造
人口のさして多くないこの「伊都國」に出向く必要については、ここが邪馬壱国の窓口だから。
今で言えば、税関。すなわち「伊都國」は出入国管理を担っている官庁街だったと言える。
・・・
さて、なぜ陸行きか?であるが、私の推論は至極簡単である。
「伊都國」には港がなかったのだもの。当然のこと陸行きしか手立てがない。
私は昨年まで長く名古屋に暮らしていたことで、素直に頷ける或る都市構造がある。
・・・
江戸時代に誕生した 「名古屋」 の町は港機能を有する 「熱田」 の町とセットで都市を形成していた。
つまり玄関にサブシティを持つことで、セキュリティを含め都市環境を整えていたのである。
邪馬壱国はかなり防衛本能に敏感な都市国家だ。ここで「名古屋+熱田」の構造にピンときた。
主の國は無防備に表に顔を出すような位置取りはせず、まず玄関となる國を面前に置くのだ。
・・・
邪馬壱国域の各國は「(主)國+(副)國」のセットで本来の一國を形成していたのだ。
つまり、「末盧國」と「伊都國」 も2國で一セットの設えを秘めていたのである。
・・・・・・
・・・・・・
この構造は、「奴國」と「不弥國」にも当てはまる。
・・・
「不弥國」 も1,000余戸の小国だ。なぜわざわざ 「奴國」 から出掛ける必要があったのだろうか?
そうです、「不弥國」も「奴國」の玄関としての港町だったからわざわざ出掛けていく。
わざわざ道程の中の一国として挙げてあるのは、行程上の意味があるからだ。
「末盧國」 に上陸した後、使節団は外交ルートを歩いて来た。
・・・
あれっ乗って来た舟はどうしたのだろう? まさか皆で草藪の中を担いできた?
いいや、一旦「末盧國」で別れた船団は水行での別働だ。当然、使節団と落合う場所が必要になる。
もう説明は不要だろう。それが港のある 「不弥國」 である。「奴國」 の玄関だ。
■ 邪馬壱國と投馬國の2国だけ日数記述の意味
さて、ここまでは今も昔も私の考えは変わっていない。変わったのはここからだ。
謎解きの核心、「投馬國:水行20日」と「邪馬壱國:水行10日陸行1月」の解釈を修正したい。
・・・
結論から言うと、「水行20日」も「水行10日陸行1月」も帯方郡からの日数である。
※クリックで拡大 「 860*860 」 : 水行・陸行
そもそも魏志倭人伝の記述が混乱の元で、故に邪馬壱国論百花繚乱。
「不弥國」までは距離を記しているのに、この「投馬國」と「邪馬壱國」だけは日数表記なのだ。
ところで、・・・
だいぶ昔に、ミクロネシアの人々が島から島へと何十キロも海を渡るドキュメンタリーを見たことがある。
その時は確か星の位置を目印に方向を定めて舟を漕いでいたように記憶する。
・・・
畿内説に南を東と読み替えるバカっぷりを晒す人がいる。
当時は太陽は北から昇っていたとか、北極星は実は西極星だったとかなら、頷けんこともないが(笑)
ん?目的地である「邪馬壱國」だけならまだしも、「投馬國」までが日数表記なのはなぜなのか?
・・・
そう、ここにも 「(主)國+(副)國」 のセット構造が明らかに存在している。
再び確認しておこう。使節団と船団の目的地は別である。そう別でいいのだ。仕事が違う。
使節団の目的地は「邪馬壱國」だが、船団の目的地は「投馬國」でいいのだから。
彼らの仕事としてだが、わざわざ「邪馬壱國」まで行く必要などない。
ただ2国は「主-副」の関係にあって離れてはいない。物見雄山で出掛けるのは可能だったろう。
使節団は舟に乗ったり歩いたりで「邪馬壱國」を目指した。「水行+陸行」である。
船団の仕事は「邪馬壱國」の港「投馬國」まででよい。故に「水行」のみの道程表記となる。
その上、何よりも帰りは「水行20日」だけをカウントすれば良いではないか。また歩きたいかい?
果たして、2國だけが、それも其々別々に日数表記されている理由はそこにある。
■ 内陸部を水行き?そこは海じゃねぇだろ!
ところで「不弥國」から「投馬國」までの水行きに疑問を呈する人も多かろう。
・・・
当時は今よりも海抜が数m高かったと言う。
福岡平野東部は深くえぐれ、筑後平野に至っては大刀洗町辺りまで海だった可能性もある。
今は内陸に位置するが、「不弥國」に港があり、筑後の「投馬國」にも港あり、はかなりの確率で想定可だ。
地図で確認してみる。宝満山に源を発する川に御笠川と宝満川がある。川を上って川を下る。
※クリックで拡大 「 860*860 」:御笠川~博多湾と宝満川~有明海:川の道 / 参考に吉野ヶ里
「不弥國」と「投馬國」は川の道で繋がっていた。
これも昔見たドキュメンタリーでのこと。同じ番組だったかどうかは不明。
島の反対側に行くために舟で島を廻り込まずに、最短距離で森の中を舟を担いでいた。島を横断だ。
行ける所まで舟で上る。川と川の繋ぎの場所は舟を運ぶ。そして向かいの川を下るのだ。
・・・
舟は自前のものだったか、邪馬壱國側のものを使ったかは与り知らぬけれど、
使節の用が済んだらさっさと帰れるという意味では自前の舟でやってくる方がスマートだ。
もちろん、そのまま来た道を帰ってもよい。私はそれでもぜんぜん構わない。
■ やまと?やまい?とうま?つま?
「邪馬台」だから「やまと」だと言う。しかし「邪馬壱」なら「やまい」だ。
・・・
ところで「投馬國」の「投馬」は「とうま」でよいのだろうか?
ここに発見があれば一気に真実に近づけるはずなのだが、なかなかそう簡単ではなかった。
と、この辺りが昔は「上妻郡・下妻郡」であったことを知り心は踊る。
なぜなら「投馬」の読みは「妻」の読みに繋がるからだ。これが裏付けられれば、もう確定だ。
・・・
しかも、「邪馬壱」の読みも「八女」の読みに繋がるのも強ち偶然だとは思えない。
■ 「邪馬壱國」の南にあるもの
倭人伝には「邪馬壱國」の南には敵対する「狗奴国」があったことが記されている。
この「狗奴国」が、後の熊襲の民であるとの言及は多いし、私もおそらくそうであろうと思う。
南に「狗奴国」の記述がなければ、佐賀平野や島原辺りも考えられるが、あるんだものなぁ。
「邪馬壱國」が筑後で「狗奴国」が熊本。これで魏志倭人伝記述の全てが符合する。
・・・・・・
・・・・・・
■ 修正(最終)稿:まとめ
● 邪馬壱(台)国以下、倭人は海人の民 である。
● 対馬海峡~朝鮮半島南岸 まで 邪馬壱国の管理下 にある。
※ 畿内からでは到底無理だろう。
● 管理下の国々は「(主)國+(副)國:港」 のセット で機能している。
● 伊都國は倭国の外交窓口、末盧國は伊都國の港町 故に陸行が行われた。
● 奴國にも港が無かった。不彌國が奴國の港 で、玄関の役割。
● 投馬國も実は邪馬壱国の玄関港 だった。
これらの倭国事情から見えて来た答は・・・
● 「南へ水行20日」 は 「帯方郡~投馬國」 の意。
・場所は筑後(旧 上・下妻郡辺り)。
● 「南へ水行10日,陸行1月」 は 「帯方郡~邪馬壱国」 の意。
・場所は筑後(八女辺り)。
・・・・・・
・・・・・・
さて「邪馬壱国」がついに筑後で確定してしまった話はここまで。
・・・
最後に、どうしても邪馬壱国と畿内を結び付けたい方々に向けて、私からの細やかな助け舟を。
■ 卑弥呼亡き後、ダメ出し出された男王はどうなった?
卑弥呼亡き後に男王が治めたが世が乱れた。そこで再び宗女である壹與が立てられたと言う。
ところでこのダメだしされた男王はその後どうなったのか?不思議なことに誰も触れない。
男王時代に内乱で千人~が死んだと言うが、当の男王の行く末は不明だ。
死んだのか?国の片隅でひっそりと隠遁生活を送ったのか?そうは思えない。
歴史を紐解けば、政争に敗れた者は大体がどこかの国に駆け込むのである。
・・・
さてどこに逃げたのか?敵対していたが南の「狗奴国」に逃げ込んだだろうか?
いやそれはない。だとすると、畿内か?それとも日向だったのか?
■ はたまた、いったいこの男王は誰だったのか?
「国を出る」で真っ先に思い浮かべるのは「神武東征」かもしれない。
しかし内乱の時期は3世紀半ばである。東征にはまだ時を重ねねばならない。
・・・
さてはもしやのニニギノミコトだったのか。筑後を抜け出して、高千穂に降り立ったとも言える。
しかしこれもないだろう。ニニギノミコトはアマテラスの孫だ。アマテラスが誰かがさっぱり?になる。
ついでに申し添えておくと、卑弥呼に子はない。
ここで、この男王は神話を振り出すことになるイザナギだったのでは?と仮定しよう。
人が千人も死ぬ戦いの中で出雲に逃げた。しかし出雲で歓迎されたわけではない。
しかも山陽も畿内も既に強国がひしめいている。どこにも安住の地は無いように思えた。
そこで北九州を避け熊本も避け、南九州は日向へと落ち延びることとなる。
伴侶のイザナミは戦いの最中に受けた傷により行った先の出雲で亡くなってしまったが、
幸いにして、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲという3人の子供は無事に逃げおおせた。
そしてイザナギの子孫は平穏な日向・薩摩の南九州に定住し血を紡いでいく。
ところが北にいた「狗奴国」の子孫(熊襲)が何らかの理由で南に下ってきたから大変だ。
またもや自らの地を追われるように安楽の地である日向に腰を据えることになった。
ニニギノミコトの時代ことである。
後に大和によって熊襲が討たれることになるが、この時の復讐かもしれない。
イザナギ一族にとって日向はいつの時でも安住、そして再生の地だ。
・・・
更に世代を経て、半島からの渡来人(山幸彦)や大陸からの(海幸彦)らの血も混ざり力を蓄えた後に、
ヒコホホデミ(神武天皇)が北九州に未だ残っていた親派らと畿内を目指すことになる。
その軍団は3つの集団以上の混合部隊であった。そのシンボルが八咫烏の3本足である。
さて、この有能なグラフィックデザイナーは誰だったのだろうか?
・・・・・・
- 以前の記事にも書いたが、畿内説にはなるほどと頷ける言説がない。
- まずは、その方向音痴ぶり。そして九州から奈良に行くまでの壮大な空白。
- 更には、倭人伝に謳われている風俗とのかい離。
- ・・・
- 後の大和政権と邪馬壱国とに連続性はほとんど(「ほとんど」については後述)ない。
- 考えれば考えるほど、九州説しかありえないように思える。
ということで、取りあえず以前記事時の考察要点を再掲しておきたい。
● 邪馬壱(台)国以下、倭人は海人の民 である。
● 対馬海峡~朝鮮半島南岸 まで 邪馬壱(台)国の管理下 にある。
※ 畿内からでは到底無理だろう。
● 伊都國は倭国の外交窓口、不彌國は奴國の港町 の役割を担っていた。
● 伊都國と奴國には港が無かった 故に陸行が行われた。
これらの倭国事情から見えて来たものは・・・
● 「南へ水行20日」 は 「帯方郡(or狗邪韓国)~投馬國」 の意。
- 復路で考えれば、「投馬國~帯方郡(or狗邪韓国) が 北へ水行20日」と言換え可。
●
●
その後、上記の下2項目について考えを改めるに至ったので、修正・最終稿としてそれを纏めてみたい。
・・・・・・
・・・・・・
上記項目について何故そう考えるに至ったかを再度おさらいしておこう。
■ 魏の使いは帯方郡から舟に乗ってやってくる
まずは 魏志倭人伝 に記述の 「帯方郡から邪馬壱国までの道程」 を押さえておかねば。
1: 帯方郡から朝鮮半島南岸の狗邪韓國まで。距離7,000余里。
2: 海渡り1,000余里で對馬國。 1,000+戸。
3: 更に海渡り1,000余里で一支國。 3,000+戸。
4: 更に海渡り1,000余里で末盧國。 4,000+戸。
・・・
5: 東南に陸行き500里で伊都國。 1,000+戸。
6: 東南に陸行き100里で奴國。 20,000+戸。
7: 東に陸行き100里で不弥國。 1,000+戸。
・・・
8: 南に投馬國、水行20日。 50,000+戸。
9: 南に邪馬壱國、女王の都。水行10日陸行1月。 70,000+戸。
・・・
0: 女王国の管理下に、斯馬國・巳百支國・伊邪國・都支國・彌奴國・好古都國・不呼國
姐奴國・對蘇國・蘇奴國・呼邑國・華奴蘇奴國・鬼國・爲吾國
鬼奴國・邪馬國・躬臣國・巴利國・支惟國・烏奴國・奴國
0: 女王國の南に敵対している狗奴國。
0: 帯方郡より女王国までの距離は12,000余里。
※ 注意) ・・・は私に依る段分け。
項目1~4 までは、倭国に上陸するまでの海渡りの道程でここに異論を挿む余地はないであろう。
※クリックで拡大 「 860*860 」 : 帯方郡~末盧國
最初の疑問は、「末盧國」に上陸した後「伊都國」に向かうのは何故か。そしてなぜ陸行きかである。
■ 「(主)國+(副)國:港」 のセットで本来の一國の都市構造
人口のさして多くないこの「伊都國」に出向く必要については、ここが邪馬壱国の窓口だから。
今で言えば、税関。すなわち「伊都國」は出入国管理を担っている官庁街だったと言える。
・・・
さて、なぜ陸行きか?であるが、私の推論は至極簡単である。
「伊都國」には港がなかったのだもの。当然のこと陸行きしか手立てがない。
私は昨年まで長く名古屋に暮らしていたことで、素直に頷ける或る都市構造がある。
・・・
江戸時代に誕生した 「名古屋」 の町は港機能を有する 「熱田」 の町とセットで都市を形成していた。
つまり玄関にサブシティを持つことで、セキュリティを含め都市環境を整えていたのである。
邪馬壱国はかなり防衛本能に敏感な都市国家だ。ここで「名古屋+熱田」の構造にピンときた。
主の國は無防備に表に顔を出すような位置取りはせず、まず玄関となる國を面前に置くのだ。
・・・
邪馬壱国域の各國は「(主)國+(副)國」のセットで本来の一國を形成していたのだ。
つまり、「末盧國」と「伊都國」 も2國で一セットの設えを秘めていたのである。
・・・・・・
・・・・・・
この構造は、「奴國」と「不弥國」にも当てはまる。
・・・
「不弥國」 も1,000余戸の小国だ。なぜわざわざ 「奴國」 から出掛ける必要があったのだろうか?
そうです、「不弥國」も「奴國」の玄関としての港町だったからわざわざ出掛けていく。
わざわざ道程の中の一国として挙げてあるのは、行程上の意味があるからだ。
「末盧國」 に上陸した後、使節団は外交ルートを歩いて来た。
・・・
あれっ乗って来た舟はどうしたのだろう? まさか皆で草藪の中を担いできた?
いいや、一旦「末盧國」で別れた船団は水行での別働だ。当然、使節団と落合う場所が必要になる。
もう説明は不要だろう。それが港のある 「不弥國」 である。「奴國」 の玄関だ。
■ 邪馬壱國と投馬國の2国だけ日数記述の意味
さて、ここまでは今も昔も私の考えは変わっていない。変わったのはここからだ。
謎解きの核心、「投馬國:水行20日」と「邪馬壱國:水行10日陸行1月」の解釈を修正したい。
・・・
結論から言うと、「水行20日」も「水行10日陸行1月」も帯方郡からの日数である。
※クリックで拡大 「 860*860 」 : 水行・陸行
そもそも魏志倭人伝の記述が混乱の元で、故に邪馬壱国論百花繚乱。
「不弥國」までは距離を記しているのに、この「投馬國」と「邪馬壱國」だけは日数表記なのだ。
ところで、・・・
だいぶ昔に、ミクロネシアの人々が島から島へと何十キロも海を渡るドキュメンタリーを見たことがある。
その時は確か星の位置を目印に方向を定めて舟を漕いでいたように記憶する。
・・・
畿内説に南を東と読み替えるバカっぷりを晒す人がいる。
当時は太陽は北から昇っていたとか、北極星は実は西極星だったとかなら、頷けんこともないが(笑)
ん?目的地である「邪馬壱國」だけならまだしも、「投馬國」までが日数表記なのはなぜなのか?
・・・
そう、ここにも 「(主)國+(副)國」 のセット構造が明らかに存在している。
再び確認しておこう。使節団と船団の目的地は別である。そう別でいいのだ。仕事が違う。
使節団の目的地は「邪馬壱國」だが、船団の目的地は「投馬國」でいいのだから。
彼らの仕事としてだが、わざわざ「邪馬壱國」まで行く必要などない。
ただ2国は「主-副」の関係にあって離れてはいない。物見雄山で出掛けるのは可能だったろう。
使節団は舟に乗ったり歩いたりで「邪馬壱國」を目指した。「水行+陸行」である。
船団の仕事は「邪馬壱國」の港「投馬國」まででよい。故に「水行」のみの道程表記となる。
その上、何よりも帰りは「水行20日」だけをカウントすれば良いではないか。また歩きたいかい?
果たして、2國だけが、それも其々別々に日数表記されている理由はそこにある。
■ 内陸部を水行き?そこは海じゃねぇだろ!
ところで「不弥國」から「投馬國」までの水行きに疑問を呈する人も多かろう。
・・・
当時は今よりも海抜が数m高かったと言う。
福岡平野東部は深くえぐれ、筑後平野に至っては大刀洗町辺りまで海だった可能性もある。
今は内陸に位置するが、「不弥國」に港があり、筑後の「投馬國」にも港あり、はかなりの確率で想定可だ。
地図で確認してみる。宝満山に源を発する川に御笠川と宝満川がある。川を上って川を下る。
※クリックで拡大 「 860*860 」:御笠川~博多湾と宝満川~有明海:川の道 / 参考に吉野ヶ里
「不弥國」と「投馬國」は川の道で繋がっていた。
これも昔見たドキュメンタリーでのこと。同じ番組だったかどうかは不明。
島の反対側に行くために舟で島を廻り込まずに、最短距離で森の中を舟を担いでいた。島を横断だ。
行ける所まで舟で上る。川と川の繋ぎの場所は舟を運ぶ。そして向かいの川を下るのだ。
・・・
舟は自前のものだったか、邪馬壱國側のものを使ったかは与り知らぬけれど、
使節の用が済んだらさっさと帰れるという意味では自前の舟でやってくる方がスマートだ。
もちろん、そのまま来た道を帰ってもよい。私はそれでもぜんぜん構わない。
■ やまと?やまい?とうま?つま?
「邪馬台」だから「やまと」だと言う。しかし「邪馬壱」なら「やまい」だ。
・・・
ところで「投馬國」の「投馬」は「とうま」でよいのだろうか?
ここに発見があれば一気に真実に近づけるはずなのだが、なかなかそう簡単ではなかった。
と、この辺りが昔は「上妻郡・下妻郡」であったことを知り心は踊る。
なぜなら「投馬」の読みは「妻」の読みに繋がるからだ。これが裏付けられれば、もう確定だ。
・・・
しかも、「邪馬壱」の読みも「八女」の読みに繋がるのも強ち偶然だとは思えない。
■ 「邪馬壱國」の南にあるもの
倭人伝には「邪馬壱國」の南には敵対する「狗奴国」があったことが記されている。
この「狗奴国」が、後の熊襲の民であるとの言及は多いし、私もおそらくそうであろうと思う。
南に「狗奴国」の記述がなければ、佐賀平野や島原辺りも考えられるが、あるんだものなぁ。
「邪馬壱國」が筑後で「狗奴国」が熊本。これで魏志倭人伝記述の全てが符合する。
・・・・・・
・・・・・・
■ 修正(最終)稿:まとめ
● 邪馬壱(台)国以下、倭人は海人の民 である。
● 対馬海峡~朝鮮半島南岸 まで 邪馬壱国の管理下 にある。
※ 畿内からでは到底無理だろう。
● 管理下の国々は「(主)國+(副)國:港」 のセット で機能している。
● 伊都國は倭国の外交窓口、末盧國は伊都國の港町 故に陸行が行われた。
● 奴國にも港が無かった。不彌國が奴國の港 で、玄関の役割。
● 投馬國も実は邪馬壱国の玄関港 だった。
これらの倭国事情から見えて来た答は・・・
● 「南へ水行20日」 は 「帯方郡~投馬國」 の意。
・場所は筑後(旧 上・下妻郡辺り)。
● 「南へ水行10日,陸行1月」 は 「帯方郡~邪馬壱国」 の意。
・場所は筑後(八女辺り)。
・・・・・・
・・・・・・
さて「邪馬壱国」がついに筑後で確定してしまった話はここまで。
・・・
最後に、どうしても邪馬壱国と畿内を結び付けたい方々に向けて、私からの細やかな助け舟を。
■ 卑弥呼亡き後、ダメ出し出された男王はどうなった?
卑弥呼亡き後に男王が治めたが世が乱れた。そこで再び宗女である壹與が立てられたと言う。
ところでこのダメだしされた男王はその後どうなったのか?不思議なことに誰も触れない。
男王時代に内乱で千人~が死んだと言うが、当の男王の行く末は不明だ。
死んだのか?国の片隅でひっそりと隠遁生活を送ったのか?そうは思えない。
歴史を紐解けば、政争に敗れた者は大体がどこかの国に駆け込むのである。
・・・
さてどこに逃げたのか?敵対していたが南の「狗奴国」に逃げ込んだだろうか?
いやそれはない。だとすると、畿内か?それとも日向だったのか?
■ はたまた、いったいこの男王は誰だったのか?
「国を出る」で真っ先に思い浮かべるのは「神武東征」かもしれない。
しかし内乱の時期は3世紀半ばである。東征にはまだ時を重ねねばならない。
・・・
さてはもしやのニニギノミコトだったのか。筑後を抜け出して、高千穂に降り立ったとも言える。
しかしこれもないだろう。ニニギノミコトはアマテラスの孫だ。アマテラスが誰かがさっぱり?になる。
ついでに申し添えておくと、卑弥呼に子はない。
ここで、この男王は神話を振り出すことになるイザナギだったのでは?と仮定しよう。
人が千人も死ぬ戦いの中で出雲に逃げた。しかし出雲で歓迎されたわけではない。
しかも山陽も畿内も既に強国がひしめいている。どこにも安住の地は無いように思えた。
そこで北九州を避け熊本も避け、南九州は日向へと落ち延びることとなる。
伴侶のイザナミは戦いの最中に受けた傷により行った先の出雲で亡くなってしまったが、
幸いにして、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲという3人の子供は無事に逃げおおせた。
そしてイザナギの子孫は平穏な日向・薩摩の南九州に定住し血を紡いでいく。
ところが北にいた「狗奴国」の子孫(熊襲)が何らかの理由で南に下ってきたから大変だ。
またもや自らの地を追われるように安楽の地である日向に腰を据えることになった。
ニニギノミコトの時代ことである。
後に大和によって熊襲が討たれることになるが、この時の復讐かもしれない。
イザナギ一族にとって日向はいつの時でも安住、そして再生の地だ。
・・・
更に世代を経て、半島からの渡来人(山幸彦)や大陸からの(海幸彦)らの血も混ざり力を蓄えた後に、
ヒコホホデミ(神武天皇)が北九州に未だ残っていた親派らと畿内を目指すことになる。
その軍団は3つの集団以上の混合部隊であった。そのシンボルが八咫烏の3本足である。
さて、この有能なグラフィックデザイナーは誰だったのだろうか?
Posted by Kashiwa★da at 16:00 | Comments(0)
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