02-1:邪馬壱国の入れ墨、稲作に覗く華南の民

2018年01月20日

- 古事記は712年、日本書紀は720年に世界創生並びに我が国の建国を綴った歴史書である。
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-  ネットで簡単に調べられるが、これまで全く関心のなかった人のために大まかなあらすじを記しておこう。
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- 幾人かの神様が出ては消えていくのだが、イザナギ・イザナミの2柱が現れ、数々の国や神を生んでいく。
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- ところが或る出産が元でイザナミが亡くなる。イザナギはイザナミを追いかけるが逆に諍いを起こしてしまう。
- ようやく逃げおおせたイザナギは、禊によりアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの3柱を生む。
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- アマテラスの孫にあたるニニギノミコトがこの地上界に下りてくることになった。天孫降臨である。
- ニニギの子である海幸彦、山幸彦にも諍いが起きるが、ワタツミの力を借りた山幸彦が家督を継ぐことになる。
- 遂には、その孫であるイワレヒコ、後に神武天皇となる人物が畿内大和に向け東征することとなる。
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-  古事記・日本書紀を読んでいくと辻褄の合わない処や似た話が繰り返される処など散見されるのだ。
-  実の一人物が2つ3つの人物に分割されたり、複数の実人物が一人の人物に纏め上げられたり。
-  並行してあった史実を直列に並べたり、時代を前後していた史実を一緒くたにしたりひっくり返したり。
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-  よって記紀の解釈は多種多様にならざるを得ないのだけれど、そりゃないだろうと感じるものも多いのが現実で、
-  勿論、私の考えも他人様からは?かもしれぬが、長年あぁでもないこぅでもないと来たからにゃこれはもう致し方ない。
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- アマテラス、スサノヲは言うに及ばず、イザナギ、イザナミも邪馬壱国の世情を反映させた話である。
- 「記紀」の解釈は多様であるが、私はそこを重要な基点とし日本の歴史を解きほぐしていければと考えている。


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前回、古事記・日本書紀に描かれた神話のそもそもの始まりは邪馬壱国にあった、とした。また以前に邪馬壱国は九州は筑後、とも述べた。つまり日本という国の歴史は筑後から始まったと言ってよいだろう。

 ● 01-1:イザナギ・イザナミ、アマテラス・スサノヲの正体
 ● 改訂) これで決まり邪馬台国 - やはり九州・筑後そして日向へ

ところで日本が産声をあげたその筑後を取り巻いていた当時、世界はどんな様子だったのだろうか。邪馬壱国を中心に連合国家を形成していた北九州だけに視点を限定せず、もっと空間も時間も広く視野を拡げ、外から内を見てみたい。いろいろと見えてくるものがあるはずだ。
 ・・・
まずは空間的・地理的な観点から押さえることとし、今回はその「前編」。その後で、得られたそれらの地理観を歴史軸で更に捉え直したいと思う。

 魏志倭人伝に描かれた邪馬壱国の風俗

少なくとも3世紀の北九州の人々がどのような日常に生きていたかは、魏志倭人伝によって示される。

魏志倭人伝に記された倭国の様子 : 魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す

男子無大小、皆黥面文身。 ● 「皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている

自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 ● 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。

夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 ● 夏(中国の王朝)の王の少康の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。

諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 ● 入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る

計其道里、當在會稽東冶之東。 ● その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。

其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。 ● その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。

種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。 ● 稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている

其地無牛馬虎豹羊鵲。 ● 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。

兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。 ● 兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている

倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。 ● 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。

有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。 ● 家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。

其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。 ● 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。

其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。 ● 倭の者が船で海を渡る時は持衰(じさい)が選ばれる。持衰は人と接せず、虱は取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。

出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・豫樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獮猴・黒雉。 ● 真珠と青玉が産出する倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、豫樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。

其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。 ● 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。

其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年。 ● 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。

其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。 ● 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。

婦人不淫、不妒忌。 ● 女は慎み深く嫉妬しない。

不盗竊、少諍訟。 ● 盗みはなく、争論も少ない。

其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。 ● 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。

尊卑各有差序、足相臣服。 ● 宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。


※ Wikipedia : 魏志倭人伝 - 倭国の様子 より引用。 尚、赤字は今回加飾。

まずは幾つかの聞きなれない言葉の意味を押えておきたい。

 ● 黥面文身 : 入れ墨のこと。特に黥面(ゲイメン)は顔に入れたそれを言う。 ● Wikipedia:入れ墨-起源
 ● 大夫 : 読みはタイフ。中国は周代の官職の一つと言う。 ● 大夫とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書
 ● 夏后少康之子[の故事引用] : 越の起こりとされる故事。鯨面文身は華南海人の風習であると見なされていた。
 ● 青玉 : おそらく翡翠(ヒスイ)であろう。ものとしては勾玉(マガタマ)が思い浮かぶ。
 ● 朱丹 : 自然界で出来る硫化水銀(一応無害)の説が多い。
 ● 令亀の法 : 亀卜(キボク)とも言う。亀の甲を使って占う。 ● 亀卜(きぼく)とは - コトバンク


 ・・・・・・

さて特に注視したい項目が、邪馬壱国の人々が海人であったことの事実と、それ故の顔・体に入れた入れ墨への言及だ。ここから彼らの素性を知ることが可能となる。

 入れ墨はおそらく魏の役人にとっても眼を惹くものだったのだろう、項目のトップで挙げている。

その言及の重要さは、遠く紀元前5~4世紀に中国は華南にあった「呉」「越」の人々の入れ墨に似ていることとの関連だ。彼らは海人でもあったし、加えて華南という稲作文化の先進地の民でもあった。

 呉と越は「呉越同舟」の言葉を残しているので、詳しくは知らずとも馴染みはある。
 呉は紀元前5世紀に越によって滅ぼされ、越は紀元前4世紀に楚によって滅ぼされた。
  ・・・
 ちなみに「臥薪嘗胆」という言葉もここに生まれたという。
 
臥薪嘗胆の故事  ※臥薪嘗胆の意味 - 四字熟語一覧 - goo辞書 より引用
中国春秋時代、呉王夫差ふさが、父の仇である越王勾践こうせんを討つために薪の上に寝て復讐心ふくしゅうしんをかきたて、長い艱難かんなんの末にこれを破った。一方、会稽かいけい山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。


 日本に海人文化と稲作技術を持ち込んだ呉人と越人

「黥面」は顔に施された入れ墨、「文身」は体のそれを言うが、これは華南に住んでいた海人の民、呉人や越人の風習だったようである。

 清代に散逸していたものを編纂し直した「魏略」に、倭についての次の記述がある。

  自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語、自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽、断髪文身
  以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也。

 
 魏志倭人伝に「夏后小康之子」の故事引用があったが、ここには「自分たちは太伯の末裔である」とも記されている。
 太伯は呉の始祖、周の古公亶父の子にあたる。故に倭人は大夫と称していたわけである。


例えば、世界を見回してみても珍しい海女の素潜り漁は、日本と韓国の済州島のみ(半島にはなし)に残る。司馬遼太郎:街道をゆく27」の因幡・伯耆の道に、「これは越人の風習」とある。

また呉越では「金銀」よりも「珠玉」を宝としていたようで、私たちが今でも「珠のような~、玉のような~」の言い方をするのは、連綿とその文化的価値観を繋いできたことの何よりの証でもあろう。

 珠は海から、玉は山からとれる宝石。魏志倭人伝には、邪馬壱国で「真珠と青玉が産出する」との記載がある。

魏志倭人伝に描かれた邪馬壱国の風俗を追っていくと、様々な場面で呉と越の風俗との一致を見ることができる。彼らが海を渡り、この日本へやって来たことに間違いはないだろう。

 02-1:邪馬壱国の入れ墨、稲作に覗く華南の民
  ※クリックで拡大 「 920*760 」 : Fig●環・東シナ海、日本海 - 海人文化圏
  注)「越」は「呉」より南にあった国だが、「呉」を滅ぼした後に北進した。従って図上では反転した記載をしている。

ところで、既に縄文時代前期には日本で稲作が行われていたことが明らかになってきているのだが、これは陸稲での話だ。畑作によって作られる熱帯ジャポニカである。しかしながら今日一般的な水稲にしても次々に事実解明が進み、今から凡そ八千年前には伝来していたものと推定されている。
 ・・・
問題はその水稲・温帯ジャポニカである。遺伝子タイプが全部で8つあると言うのだが、日本の米はその内の3つのみらしい。ところが日本の3タイプの内の一つは朝鮮に存在していない。どうも華南から直接日本へもたらされたと考えるしかない。
2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた調査・・・
 ・・・
SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く、朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。 日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多い。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心である

Wikipedia - 稲作 から引用
70年代末に、唐津の菜畑遺跡、福岡の板付遺跡と相次いで縄文時代晩期地層から初期の水田跡が見つかった。それまで想定されていた年代より500年程遡る、今から凡そ三千年前、紀元前10世紀の水田だ。朝鮮半島での水稲遺構はAD5世紀まで待たねばならないと言うから、となるとやはり直接に華南から日本にやって来た米があると考えるのが素直な考え方となろう。

 その華南から直接来た米が、現在の日本米の大きな割合を占めているそうだ。
 稲作は朝鮮半島から伝搬したと教えられてきたものだったが、昨今ではその嘘が明らかになって来たようである。


ところで、菜畑遺跡も板付遺跡の場所もかなり海の近くであることに気付く。もしかすると、当時の水田は水を管理する上で、海の際に限定されたものであったとも考えられる。技術が進歩し内陸部で水田が作られるようになるのは、まだまだ先の話なのだ。

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この時代に、まだ日本も朝鮮もない。あったのは東シナ海と日本海という海を跨いだ領域の、「呉」や「越」、そして「縄文人」を始めとする海人たちの文化圏の世界。少なくとも三千年前、更にはそれよりも前から。

 ・・・ なのだが、続きは次回以降に。




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