02-3*時間軸no3:BC2~3世紀 -「漢」の覇権拡大と「魏,呉,蜀」

2018年04月13日

- 古事記は712年、日本書紀は720年に世界創生並びに我が国の建国を綴った歴史書である。
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-  ネットで簡単に調べられるが、これまで全く関心のなかった人のために大まかなあらすじを記しておこう。
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- 幾人かの神様が出ては消えていくのだが、イザナギ・イザナミの2柱が現れ、数々の国や神を生んでいく。
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- ところが或る出産が元でイザナミが亡くなる。イザナギはイザナミを追いかけるが逆に諍いを起こしてしまう。
- ようやく逃げおおせたイザナギは、禊によりアマテラス・ツキヨミ・スサノヲの3柱を生む。
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- アマテラスの孫にあたるニニギノミコトがこの地上界に下りてくることになった。天孫降臨である。
- ニニギの子である海幸彦、山幸彦にも諍いが起きるが、ワタツミの力を借りた山幸彦が家督を継ぐことになる。
- 遂には、その孫であるイワレヒコ、後に神武天皇となる人物が畿内大和に向け東征することとなる。
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-  古事記・日本書紀を読んでいくと辻褄の合わない処や似た話が繰り返される処など散見されるのだ。
-  実の一人物が2つ3つの人物に分割されたり、複数の実人物が一人の人物に纏め上げられたり。
-  並行してあった史実を直列に並べたり、時代を前後していた史実を一緒くたにしたりひっくり返したり。
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-  よって記紀の解釈は多種多様にならざるを得ないのだけれど、そりゃないだろうと感じるものも多いのが現実で、
-  勿論、私の考えも他人様からは?かもしれぬが、長年あぁでもないこぅでもないと来たからにゃこれはもう致し方ない。


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中国大陸と朝鮮半島の国々の興亡を時間軸で押さえる、今回はその3回目になる。
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前回は混迷の春秋・戦国時代の戦国七雄を一渡り眺め、最終的に中国全土を制したものの始皇帝の死で束の間の天下に終わった「秦」とその影響に触れた。

 ● 02-3*時間軸no2:BC3世紀 - 戦国時代,「秦」興亡の余波

今回は、「秦」滅亡後のBC2世紀からAD3世紀までの「漢」と「魏,呉,蜀」三国時代について。中国歴史小説の中でも著名且つ好きな人も多い「項羽と劉邦」や「三国志」の時代である。故に馴染み深い人も多いかと思う。

 「秦」に止めを刺した項羽、そして劉邦

BC206年に「秦」は滅びたが、そこには私たちに耳馴染みの二人の人物が関わっている。「西楚」の項羽(項籍)と「漢」の劉邦だ。始皇帝の突然の死の後に「秦」の天下は瞬く間に瓦解していき、国内は再び乱世へと真っ逆さま。そこに現れたのが件の二人である。

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破れて後も旧雄国でくすぶっていた「秦」への敵対心は、始皇帝の死後急速に蠢き始める。その中でBC223年に滅ぼされた「楚」においても、将軍家系の項家に生れた項羽が陳勝・呉広の乱に乗じて挙兵。この項羽軍の戦闘力は他を寄せ付けず、ついに「秦」の核心軍を打破したことで反「秦」連合軍の中心的な存在へと上り詰める。
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項羽軍は、その余勢を駆って「秦」の都、咸陽に向けて進軍する。ところがである。劉邦軍に出し抜かれ、一足先に咸陽陥落の報が入る。項羽はこれに顔真っ赤っかだ。これはやばい。それを知った劉邦は項羽に頭を垂れ、その軍門に下ることとなった。ここに「秦」は滅び、「楚」が復権、項羽は「西楚覇王」を称することとなる。

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暴政極まった「秦」に成り代わって誕生した「西楚」であったが、元来の粗暴ものであった項羽の治世もまた酷い有様で、一年も経たずに劉邦を筆頭に全土で反「西楚」軍が決起する事態へと急展開。以降、4年にも渡る「楚漢戦争」が始まることとなった。結局は人心を得る術を持たなかった項羽が自害するに至り、幕は閉じた。
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ちなみにこの「楚漢の戦」時の故事から生まれた言葉が「背水の陣」とか「四面楚歌」だ。特に「四面楚歌」に至ってはその侘しさに何とも胸が詰まって仕方がない。

背水の陣
「史記」淮陰侯伝の、漢の名将韓信が趙(ちょう)の軍と戦ったときに、わざと川を背にして陣をとり、味方に退却できないという決死の覚悟をさせ、敵を破ったという故事から》一歩もひけないような絶体絶命の状況の中で全力を尽くすことの例え。
コトバンク:デジタル大辞泉の解説 より引用

四面楚歌
《楚の項羽が漢の高祖(劉邦)に敗れて、垓下(がいか)で包囲されたとき、夜更けに四面の漢軍が盛んに楚の歌をうたうのを聞き、楚の民がすでに漢に降伏したと思い絶望したという、「史記」項羽本紀の故事から》敵に囲まれて孤立し、助けがないこと。周囲の者が反対者ばかりであること。
コトバンク:デジタル大辞泉の解説 より引用

「背水の陣」は項羽側の「趙」軍との戦で「漢」軍の韓信が取った戦法。またこの韓信を評した言葉に「国士無双」がある。

 ■ 痛めつけられっ放しの華北の国々、特に「斉」

華北にあった「趙」はBC228年に、「斉」はBC221年に「秦」に滅ぼされてしまい、その圧政下では破れた国の民は万里の長城築造に駆り出された。その「秦」の天下もあっという間に崩壊し、ならば平穏な社会となったかと言えばまるっきり逆だ。既に述べたように、次に天下を取った項羽の封建に真っ先に反逆の口火を切ったのが「斉」だ。故にBC205年には項羽軍の侵攻を受ける。なんとか持ち堪えたものの国力の消耗は酷かった。
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これを契機に拡大していった争いが「楚漢戦争」である。 ● Wikipedia - 楚漢戦争

 -  戦争の概略を把握したいのだが、文章だけではさっぱり頭に入ってこない。
 -  なので、Wikipedia に掲載の「楚漢戦争マップ」を借りて、そこに日本語を加筆、更に年代順に主要な「戦」も拾った。
 - かなり「楚漢戦争」を俯瞰して見ることが出来るようになったと思う。


   02-3*時間軸no3:BC2~3世紀 -「漢」の覇権拡大と「魏,呉,蜀」
   ※クリックで拡大 「 1275*900 」:Fig●Wikipedia-楚漢戦争 より引用、日本語加筆,及び年代順に「戦」を拾出し

BC204年になると、「漢」の韓信軍が破竹の勢いで華北の国々を制圧し始める。「魏」を、そして「背水の陣」により「趙」がこっぴどくやられたのは上で取り上げた通り。更には今で言う文民統制により和睦した「斉」にも、それを打ち破って侵攻するに至った。

 この韓信の侵攻に対し、「斉」は「西楚」に救援を求める。
 地図上で「斉」が「西楚」同盟国の薄青に表示されているのはそのせいだろう。


それにしても、「秦」の侵攻に始まり、「西楚」項羽軍に「楚漢戦争」での「漢」韓信軍と、「斉」は痛めつけられっ放しである。これじゃぁ民もおちおち暮らしちゃいられない。
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と、ここで思い起こすのが、山東半島と遼東半島の地理である。日本人の私達にはピンと来ないが、この二つの半島は「廟島群島」によって連なっているのだ。国を捨てると決めたら、かなり優先度の高い逃走経路に見える。

   02-3*時間軸no3:BC2~3世紀 -「漢」の覇権拡大と「魏,呉,蜀」
   ※クリックで拡大 「 920*850 」 : Fig●中国:山東半島~廟島群島~遼東半島 地図

前回でも述べたが、「斉」は「製鉄」,「製塩」,「機織り」等々の発達した国であった。この意味は大きく重い。

 劉邦、「漢」王朝を建国し高祖と称す

最終的に項羽を打ち破った劉邦がそのまま天下を統一し「漢」を建国する。BC202年のことだ。
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都は長安(現罪の西安)に置かれた。何のことはない、「秦」の都だった咸陽の南を流れる渭水の対岸である。また「秦」が整えた中央集権的な制度の数々も踏襲して権力の土台を安定させる。栄枯盛衰の波また波の年月ではあるけれど、途中皇帝の外戚である王莽に権力を簒奪された15年間程を除き、凡そ400年にも渡って王朝は続いた。

 王莽の建てた王朝は「新」、期間はAD8~23年である。
 その「新」以前を「前漢」と言い紀元前の約200年間、以後が「後漢」で紀元後の約200年間だ。覚えやすい。


 02-3*時間軸no3:BC2~3世紀 -「漢」の覇権拡大と「魏,呉,蜀」
  BC2C-前漢の最大領域と張騫の行路:世界の歴史まっぷ

「漢」 ● Wikipedia - 漢

長期間の治世だったからと言って、平穏で平和な世の中であったわけではない。半世紀も過ぎ中央集権治世が安定し国が強大化すると、それまでの王朝では見られなかった周辺地域への覇権伸張が目立つようになる。それは遥か西域ウイグルまで伸びたかと思えば、朝鮮半島をも勢力下に置くに至る。
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長安と言えば、シルクロードを思い出す人も多いはずだ。長安は中国側の起点の町だ。それは言うまでもない、ここが「漢」の都であったからだ。西域の文化が大量に都長安へと流れ込んで来ることは当然の結果であった。

 ウイグルの地は、「万里の長城」まで築いて恐れていた匈奴が支配していた処だ。そこを奪い取った国力。
 ヨーロッパを覆いつくしたローマ帝国をも凌駕するその広大さに、如何に「漢」の国力が富んでいたかを思い知らされる。


勢い余る「漢」の覇権は、それまで完全には抑えきれていなかった華南は越(北ベトナム)にまでも及んでいく。

 「呉」「越」の末裔が建国していた「東甌」と「閩越」

既に取り上げてはいるが、今一度長江河口域にあった「呉」と「越」についておさらいをしておこう。

 - 「呉」は長江下流域に、「越」はその南にあった国だ。
 - 「越」はBC473年に「呉」を滅ぼすと、その領域を山東半島付近まで北侵させる。
 - ところがBC334年に「越」も「楚」によって滅ぼされてしまった。
 -  ● 02-1:邪馬壱国の入れ墨、稲作に覗く華南の民
 -  ● 02-3*時間軸no1:BC5,4世紀 -「呉」と「越」の滅亡


破れた「呉」や「越」の民は行き場を無くし海を渡った者も多かっただろう。
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しかしながら、国破れた「呉」の民が跡形もなく霧散したとは到底考えられない。そうなのである。元々の「越」の地の背後に潜り込むようにして新たな「東甌(トウオウ)」なる国を興していたのである。現在の浙江省辺りだ。建国はBC472年と言うから亡国の翌年のことになる。それは「越」の民にしても同様で、国が滅ぼされた翌年のBC333年には既に「閩越(ビンエツ)」をと言う国を建てている。場所は「東甌」を南に飛び越え、現在の福建省辺りだ。

 「東甌」と「閩越」の位置関係だが、北に「呉」、南に「越」と本来の南北地理感覚に戻っていることが実に面白い。

「東甌」 ● Wikipedia - 東甌
「閩越」 ● Wikipedia - ビン越

また、この二国より南方の広東省から北ベトナムに渡る「百越」の地も「秦」によって南海郡として法治されたのだが、その滅亡後に軍事長官趙佗によって「南越」が建国されている。BC203年のことだ。

「南越」 ● Wikipedia - 南越国

 02-3*時間軸no3:BC2~3世紀 -「漢」の覇権拡大と「魏,呉,蜀」
  ※クリックで拡大 「 1050*1430 」 : Fig●中国・朝鮮半島 [時間軸] 03 - 「漢」と「魏,呉,蜀」の興亡

そのような華南の地にも「漢」の覇権が徐々に覆うようになる。結論から言えば、「漢」の知略と軍事力の前に相手にもならず、現在の北ベトナウ辺りまでが「漢」が勢力下に置かれることとなった。

 「東甌」はBC138年、「閩越」と「南越」は共にBC111年に滅亡している。

哀しい哉、「呉」「越」の民は幾度目であろうか、またもや霧散の憂き目に会ってしまったわけである。

 「漢(後漢)」と 倭の「奴国」,「面土国」,「邪馬台国」との関わり

紀元後の「後漢」の時代になると、ボチボチと日本との関わりも出てくる。
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志賀島から出土した「漢委奴国王」金印は、「後漢」光武帝からの「奴国」朝貢への返しである。AD57年のこととされる。 ● Wikipedia - 漢委奴国王印

 光武帝は「後漢」の初代皇帝。
 傍流の生まれだが、「新」の愚挙で乱れに乱れた世に蜂起し中心的な存在となる。「新」を破ってAD25年に「漢」を再興。
 都は長安から東方へ、黄河流域の洛陽に移した。傍流の出故に長安に左程思い入れなどなかったからだろう。


また、AD107年には倭の「面土国(面上国)」の王、帥升(スイショウ)が「後漢」に朝貢したことが後漢書東夷伝に記されている。 ● Wikipedia - 帥升

 中国史書に描かれた最初の倭人(日本人)である。日本書紀纂疏には後漢書からの引用として「面上国」の記載。

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「後漢」もAD1世紀末にもなると外戚と宦官が幅を利かすようになり、帥升が朝貢した時代は既に彼等の権力闘争の嵐の真っただ中。その後も争いが絶えることはなく、政治は腐敗するばかり。とうとうAD184年に入ると黄巾の乱と言われる農民反乱が勃発、全土に拡大する。 ● Wikipedia - 黄巾の乱

 ■「黄巾の乱」と「倭国大乱」の同時代性

既に「後漢」には乱を鎮める力どころか国を治める力もない。然るに、乱の勃発と同時に遼東地方(下図の「幽」)では地方官であった「公孫氏」が地方政権を主張するに至っている。

「公孫氏」 ● Wikipedia - 公孫氏 (遼東)

面白いことに、時を同じくして日本でも「倭国大乱」が起きている。どうにも何らかの関係性があるようにも思えてならない。突発的に日本列島を目指した民がいたのではないかと言う可能性である。動乱の大陸から直接もあろうし、玉突き式に半島経由の渡来もあろうかとの推測である。
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平衡状態を保っていた「倭国」に、突如渡来して来た異文化の民。波紋のように国内に動揺が走る。彼等に同調する国もあれば、敵視する国もある。文化摩擦、波乱の幕開けである。

 ● Wikipedia - 倭国大乱

この大乱は卑弥呼の擁立によって治まったとされる。卑弥呼の治める「邪馬台国」は何度か「漢」に朝貢したと思われるが、実は行程途中にあるこの「公孫氏」が代わりにその朝貢を受けていた疑いがあると言われる。

 何故ならば、中国史書から丁度この期間の記事がスッポリと抜け落ちているからだ。

 またまた乱世へ、「魏,呉,蜀」三国時代

ついにAD220年、「後漢」は滅びた。再びの乱世、群雄割拠状態へ舞い戻りだ。

 02-3*時間軸no3:BC2~3世紀 -「漢」の覇権拡大と「魏,呉,蜀」
  AD2C-後漢末期・三国時代 ※ 「公孫氏」は「幽」の地。

時を経て、三つの国が台頭する。「魏」と「呉」と「蜀」である。
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 「魏」は戦国七雄にその名があった。「呉」はもはや言うまでもないだろう。
 「蜀」は諸葛孔明の天下三分の計によって領地とした巴蜀(ハショク)の地、現在の四川省辺りになる。


「三国時代」 ● Wikipedia - 三国時代 (中国)
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「魏」 ● Wikipedia - 魏 (三国)
「呉」 ● Wikipedia - 呉 (三国)
「蜀」 ● Wikipedia - 蜀漢

建国年が、「魏」はAD220年、「呉」がAD222年、「蜀」がAD221年であるから、「後漢」が滅びると同時にすぐさま国を興したことが伺える。いやはや、これはもう民族闘争以外の何物でもなかろう。
 ・・・
それ故、黄巾の乱勃発から一世紀余のこの動乱に次ぐ動乱まみれの時代は、社会風俗、風紀の乱れは言うに及ばず、飢饉は慢性化するはで、国中が凄まじい貧しさに喘いでいた時代であったようだ。

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 ■「魏」と「邪馬台国」の接触

「魏」は、あの「魏志倭人伝」の「魏」である。「魏志倭人伝」は、あの「邪馬台国」の「魏志倭人伝」だ。

 この史書がもしなければ、AD5世紀までの日本についての情報は無いに等しかったと言ってよい。

遼東地方を治めた「公孫氏」であったが、「魏」と対立しAD238年に滅ぼされた。この過程で「魏」は朝鮮半島に進出し、よって以降は「魏」と「邪馬台国」は直に接触を持てるようになる。
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AD239年(景初3年)に卑弥呼は「魏」に朝貢する。その翌240年には「魏」の梯儁が渡来し、卑弥呼は「親魏倭王」の位を授けられている。他に金印と銅鏡100枚も授けられたと言うが、未だにはっきりとした証拠品は謎のままだ。またAD247年には隣国「狗奴国」との争いへの支援を要請し、張政が渡来している。

 この後、帰国する張政に同行する形で卑弥呼に代った台与が「魏」に朝貢する。
 卑弥呼の死が張政の渡来前だったのか後だったのかは、解釈が分かれ不明である。
  ・・・
 従って、「狗奴国」との争いが卑弥呼の死に遠因するものかどうかも、その解釈次第となろう。



 ・・・ 次回は*時間軸no4 として、朝鮮半島の時代経緯を見て行きたい。




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